Thursday, November 26, 2009

〔表情の言語哲学〕2 付録論究 自己疎外の他者からの引き受けと他者への要請

 私たちは「語る」ことそのものがファジーさを一切払拭してしまい一義的メッセージとなってしまう語彙化の威力そのものを確認した。しかしそのように語彙化されて第三章で示したような真理領域的部分理解となってしまうこと自体に私たちが自覚的であるという事実自体が私たちが言語的思考以外の感覚的理解をも我々の能力として認めていることの大いなる証拠である。しかしこの言語化不能の感覚を所有していること自体はかなり私たちの精神を不安定なものへと陥れる。つまり私たちが言語獲得以前の動物的直観に恐れ戦いてしまうのである(尤も言語以外の人間的直観というものもまた実は考慮しなければいけないのだが、取り敢えずそのことは置いておこう)。
 つまりこれこそが、私たちに他者に表情があり、それを読み取るということを、こちらの表情を読み取って貰うこととの交換において渇望するという状態を作っている。つまり私たちは語ることを通して他者に関わることがそういった本能的自己身体への恐れ戦きであることを薄々知っているからこそ、他者を疎外された自己の鏡として認識するのである。
 つまり自らの本能的判断の所有自体への恐れ戦きを自己に認めることが他者存在を自己と相同の心的様相の保持者として認識することを希求させる。それは言葉を他者から引き受け肩代わりしているとも言える。何故なら、そうすることによって他者内にも自己と相同の恐れ戦きを認めてもいるからである。
 この恐れ戦きとは実は、自己に纏わる未来の不確定的不安、何度も繰り返し述べてきた死に対する個的不安保持にもなり代わり得ることは言うまでもない。私たちも又ただの動物的死を避けられ得ないからである。故に永遠という想念はその事実自体への我々に拠る抵抗的意図が生み出したものに相違ない。
 自己疎外は自己にのみ固有のものではないという信念は勿論確然としたものではない、常に揺れ動く想念である。しかしであるが故に他者に対し、それが自己にのみ固有のことであるかどうかを確かめる(第三章から結論に至る一つの命題として)という意志を意思疎通的に私たちに抱かせる。
 他者からの引き受けと私が言うのはとりもなおさず、他者が感じる自己疎外不安を私が共有しようという態度を採る(振舞う)ことであり、そこに必然的に理解を示す表情を介在させることとなる。他者への要請とは言うまでもなく、他者から引き受けるように、こちら(自己)の自己疎外不安を他者に示し理解して貰うように委託することである。この両者は必ずしも成功するとは限らない。これもまた未来の不確定性への不安を掻き立てる。
 私は前節においてデカルトを通して「語る」ことと「示す」ことの違いについて述べた。そのことについて考えてみよう。実はこのことはウィトゲンシュタインは自覚していたが、座標軸の一点を私たちがその意味について読み取る時、私たちはその一点において示されたことを解釈している。しかし「語る」ことはそうすること自体で示されたことについて意味を受け取り、示されたことについて解釈出来るように説き伏せるほどの力を持っている。それは「語る」ことが音声的顕現であれ、記述であれ、語彙化という真理領域的部分理解を通して一義的にある物事を主張することとなる。
 つまりその矛盾こそが言語の限界に他ならない。ウィトゲンシュタインが言語の限界が世界の限界であると言った時、それが世界そのもののことなのではなく、「世界」と世界のことを語ってしまうことについて言ったことなのである。何故なら、私たちは仮に実感し得ているものが「世界」と一言で表現することにあるもどかしさを感じ取ったとしても尚、そのことを含めてそれを私たちは「世界」と呼ぶからである。それをデカルト流にコギトと言い換えても事情は変わりない。
 私たちはデカルトが抱いていたであろうもどかしさと全く同じことをウィトゲンシュタインの中にも読み取ることが可能である。つまりこの内的なもどかしさとはある意味で、どんどん語彙を換えていくことでしか解消れ得ないとも言い得るのである。何故ならもどかしさ自体は、私たち自身が感情はいたく複雑であるのに、例えば「笑う」ということ一つとっても、「バカ笑い」「苦笑」「微笑」「ほくそ笑み」といた極めて限られた語彙しか持たないし、また表情にしてもほんの社交辞令としての微笑みと性的誘いの間の明確な境界さえ内的感情の決定的な差異ほども我々は持ち合わせていないからである(私たちは外面的表情というサインだけでなく、感情においては過去の記憶に対する想起とか現在知覚的判断とか想像といったことを同時に感情を通して行っている)。
 世の中の大半の殺人とは恐らくこの他者の示した表情に伴う感情の読み違い、即ち誤解に起因している、と私は思っている。
 「君はあの時、同意の態度を示したではないか」と犯人は相手の豹変振りを指摘するだろう。しかしそれは豹変したのではなく、ただ単に相手の態度を読み違えただけのことに過ぎないのだ。
 私たちはしばしば相手の表情を自分が相手に望む風に解釈(読み取る)傾向さえある。特に親しい間柄であると思っていた他者に裏切られた時などはそうである。「彼がそんなことを思っていた筈などあるわけがない」と。つまりだからこそ自己疎外ということが切実なものとして迫ってくるのである。そしてしばしば私たちはこのような気持ちを自分以外の他者もまた抱いているものだろうか、という想念の下で他者を認識する。それは孤独と言うには余りにも表現不可能な相互理解完全一致の不可能性に対する予感である。つまりその余りに絶望的な理解し合えなさに対する自覚こそが、その思念自体の自己にのみ帰属することを信じたくはない感情こそが、逆に同一の心情保持者として他者を必要とするのである。
 つまり一方で「こういう気持ちは自分だけが抱いているのではないか」という他者と相互に完全理解一致し得なさが、逆に他方「他者もまたそうであって欲しい」という形で私たちは他者を求める。他者とは終ぞ全てを理解することは出来ないという形で逆に各私同士を結びつける動因となる。

 付記 「表情の言語哲学」2はこれで終了致します。暫く休暇を頂き、再び別の論文「羞恥と良心」「良心と羞恥」などを順次掲載更新していきます。(河口ミカル)

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