Saturday, November 14, 2009

〔表情の言語哲学〕2  第三章 表情と行動の関係

 表情筋を伴った複雑な感情表現は高等霊長類(チンパンジー、ボノボ、ゴリラ、マントヒヒ、オランウータン)にのみ許された所作である。そしてその表情は全て言語であり、つまりコミュニケーション手段として何らかのサインの役割を持つ動物は押し並べて、原=言語の所有者である。すなわちそれは人間だけではない。しかしそれがエクリチュールへと展開するとなると、やはり人間だけである。しかしこれは一体どういうことなのだろうか?つまりこういうことだ。人間は意思疎通する手段としての表情を他者に示すことと、その表情を示すことそれ自体を分けて考えることがたまたま出来たということだ。このことを人類言語学者であるテレンス・ディーコンはレファレンス能力と捉えている。この現実の行為や対象と、その行為そのものや対象そのものを俯瞰して、つまり一歩後退させた地点から客観的に眺める行為そのものを、その行為や対象に対するメタ認知と言うが、それを行為や対象そのものとは別個に、つまりそのものとは切り離された事態として認識することの出来る能力そのものが、人間の他の霊長類とは異なった、つまり人間にだけ今のところ付与された能力である、と見ることが出来る。しかし重要なこととは、そのような客観視と俯瞰視能力を駆使して、人間は異なった位相の行為を更に高次のレヴェルの行為を案出することに長けていたということだ。その一つがエクリチュールの発見であろう。それは発声行為としてのパロールを、「声を出して他者との間で意思疎通し合う」という行為そのものを、説明的な道筋で捉える、すなわち論理的に理解することが出来たからこそ、そこに、ではそういった意味産出と、他者‐自己の意思疎通という通信性そのものを、別個の形で写像することによって、つまりそれ自体をレファレンスとして認識し、そのレファレンスの像、つまり一つのシンボルとして明確に認識出来る形で保存することは出来ないか、という懸案事項の結果としてエクリチュールが案出された、と捉えることが可能である。それは音声聴覚行為そのものを、その際に発話者、発話内容を音声で受信する者双方の意思疎通性そのものを、そういった音声聴覚とは全く別個の形でまさに「示す」うってつけの方法として書記という行為が案出された、ということである。この時絵画や、音楽以外の、つまり発声聴覚行為の持つ音楽性と、絵画の持つ空間写像性を、一挙に満たすそれまでにはなかった形での複合的手法を捻出した瞬間、我々の祖先は明らかに行為そのものへの、あるいは指示対象そのものへのメタ認知能力そのものを書き留める、保存する手段を発見したことになる。
 ジャック・デリダは初期論文である「グラマトロジーについて」で、レヴィ・ストロースが訪れた南米の諸部族の居住地域での体験を示した「悲しき熱帯」を高く評価している。彼等は当然のことながら文明人がするような意味でのエクリチュールは持たない。しかし顔や身体に無数の記号を描き、それをある種のシンボルとして利用していた。それは文明化された我々の文字使用や記号使用のような分化された用途としてではなく、それ以前の恐らく祈祷的思念と、身体的バイオリズムそのものに対する神の声からの受け答えとして執り行うある種の彼等なりの社会行為であるとストロースは直観し得たからこそ、それらを我々の使用する文字のような純粋記録性のものとは別個のものであるにせよ、そこに原=エクリチュールとしての性格を読み取ったのである。そしてデリダはそのことに対して真摯に受け止めている。つまりそれはストロース→デリダによって示された原=エクリチュールという根源からの延長線上に位置する一つのヴァリアントなのである。
 そして人間の表情は明らかに無数のそういったシンボル化作用である原=エクリチュールを根源とする作用の中のたまたま見出された一個の表現方法でもある。そしてそれは何より偽装の最も難しい、あるいはその不可能性をすら告げる顔=感情であるところの原サインである。人間だけが恐らく表情における感情と、その感情を模様などで表現することとと、それを文字によって記すことの行為それぞれを並列した、等価の行為として認識し得たのだろう。つまりそれらは端的に感情の意思表示という内的思念の表明、表面現出化作用として、受け取ることが出来たということを意味する。
 つまりここにディーコンの主張するレファレンスということにおける行為的実現、行為的理解(つまり説明する能力としての理解ではなく、行為実践してそれを身体的所作とか慣用において理解しているということ)の典型例を見出すことが出来る。
 確かに我々は文字を持たないクルド人に対して野蛮である、という観念を持たない。それは彼等がたまたま文字を持たなくても、何かそれを補い、別種のやり方で意思疎通し得てきたであろう、ということを、つまりこのレファレンス明示能力、あるいは原サインを他の行為と並列的な現実として認識することが可能な我々の仲間である、と我々が理解することが出来るからである。そういう行為の並列的認識こそカテゴリー思考能力なのである。そしてそれは他のいかなる霊長類にも真似することが出来ない。
 だからこそ表情を示すことそれ自体を人間だけが言語行為として認識することが出来るということを意味する。それはあらゆるパントマイムその他をも含む身体言語活動の原サインであり、根源に位置すると言ってよい。だから逆にその事実は他者のいない時、つまり自分の表情を読み取る他者不在時においては、我々はその原サインの意味、つまり顔つきとか他者が識別可能な表情の意味というものがそれほど意味を持たないということも意味する。勿論既に他者の存在を考慮に入れて行動している我々は、たとえ一人でいる時にも、その他者性というものを思念上考慮に入れた表情をしている筈なのだから、それは他者間で示される他者との交わりを想定した原サインの一ヴァリアントであることは間違いない。
 つまり我々は一人で顔を洗い、手を洗い、髭を剃り、腕を上げる全ての所作を、一人でいる時に誰に対して示すことがないにしても尚、そこに他者を想定している。自分が自分の顔の表情や健康状態を確認する時、自己に対して他者の視線を向けている。そしてそうして自分のことを確認するのは、今度別の機会に他者に相見えることに対する無意識のウォーミングアップである、ということもまた確かである。
 しかし生まれてから一度も他者(両親や家族を含む)とかかわりなく成長した個体がいたとして、その者は、例えば狼少年的な生い立ちである場合、恐らく他者に示すという練習ででもあるかのような表情の取り繕いそのものを決してすることは出来ないかも知れない。尤も狼に対して仲間であるという意識があるとすれば狼の表情言語をそこに見出そうとするということは考えられる。
 我々は確かにラカンの鏡像段階において、初めて自分を自分である、即ち他者が見る自分の姿というものに対して自覚的になる。鏡を見てそれを自分であると認識出来る種は、チンパンジー、ボノボ、オランウータン、イルカ、アジアゾウ、人間だけである。ゴリラは他者に対して直接視線を投げかけ合うことそのものを忌避する傾向の習性があるので、自分の鏡像を自分であると認識する能力を発現する以前に諦めてしまうということが言えるのかも知れないと動物学者たちは考えているようである。
 ともあれ我々が鏡に映る自分を他者の視線からのものとして捉える自分は、自分の採るべき表情や行動を意識する雛形であると言ってよいだろう。それを自己意識とか自己に対する認識のスタートであると考えても確かに間違いではない。つまり他者とコミュニケーションを取るという行為可能性としての自分に対する発見と、その発見的事実の長期記憶化作用である。そして表情を作ることそのものは端的に他者に対して意思疎通することを暗黙の内に同意している、というもう一つの大事な事実を我々に告げ知らせる。つまり表情の明示とは、他性の承認と、意思疎通相手としての他者との交信の同意である、ということである。つまりそれがあるからこそ、我々は「あなたと話がしたい」という表明を態々する必要がないということなのである。
 言語そのものについて考えてみよう。
 私は言語を品詞からその発生論的ニュアンスもある人類哲学として捉えてみたいのだが、その前に言語が社会ゲームとして成立する場として、あるいは前提条件としての生活史というものを考えている。例えばホモサピエンスだけが霊長類の中で一年中発情可能である。発情期というものはこと人間に限って(尤もそういう種が他にも発見出来るかも知れないけれど)ない。つまりこのような事態とはどういう状況によって自然選択において決定されていったのか?捕食外敵の恒常的な存在、あるいは地球物理的な過酷な条件で人類の祖先が滅びかけていた状況に対する自然選択的抵抗として発情期という周期的妊娠可能性に対する改善という措置が自然の側から齎されたと考えることが可能である。しかし重要なこととは、何故そうなったかということよりも、そうなってしまったことによる我々人類に対するもう一つの恩寵を見つめることに他ならない。
 それを私は理性と考えている。これは勿論原始理性である。そしてその原始理性とは同僚間での信頼、仕事(狩猟採集、後に栽培)中心の社会活動の進化である。
 本来性行為そのものが快楽を伴わない種は、それだけで絶滅対象である。そして人間もまた性行為を身体的、であるが故に精神的なものとしても快楽として認識出来る。そして一年中妊娠可能、射精可能であるという現実は、性行為の快楽に感けていたら、たちまち種の生存を脅かされていたことだろう。そのために性行為をすることは家族単位での幸福追求という事実を一方で容認しながら、他方その幸福を一人でも多くの成員(大人社会での)が享受出来るために、一致協力して仕事に邁進する時には性的欲求を抑制し、禁欲的な生活によって報酬を得ることをモットーとしなくてはならない。その時協力という概念が、そして自由と保障、責任と義務、幸福と権利といった概念が発生した可能性も充分にある。しかし同時にオフの時間には性行為をして子孫を繁栄させるための努力をしなくてはならない。そのためにまさにデズモンド・モリスが人類のメスだけが乳房が巨大化している事実を性的信号説として捉えていることに対する正当的根拠が成立するのだ。つまり性的抑制機能(仕事中に仕事以外の快楽へと走らないように禁欲すること)の解除として乳房がオフの時間にメスからオスへと発せられる性的快楽誘引的記号として作用してきた、ということである。それがなければ人類は絶滅していたであろう。そして言語は恐らく仕事での同僚との協力と、オフの時間での配偶者での家族的慰安という精神的作用の両面から発展してきた可能性もある。
 つまり人類は性行為がいつでも可能となった時点で、既にその事実に対して自覚的だった。そしてその時を選ばずに性行為が可能なことが、逆に仕事をいつしてもよい、つまり性行為をある一定の時期にしなくては子孫を作ることが出来ないという切羽詰った状況から開放されたが故に精神的に時間を自由に選ぶことが可能となり、ビジネスオンの時間において協力と、禁欲的(まさにマックス・ヴェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義精神」は人類の社会活動の起源としてそういった人類の理性発露の絶頂して近代を捉えている。尚カントが他律というものは、実は多分に性行為に対する拘泥とか耽溺を意味するのだ)で個人私利私欲、個人幸福追求を一時棚上げする智恵として理性を招聘した、つまり楽しい生活をすることと、その生活を成り立たすために全ての成員が少しずつ私利私欲を我慢することという並列思考が可能となった。つまり性行為がいつでも可能なことを、いつでも可能であるなら、いつ仕事をしてもよいという認識に結びつけること、つまりそれぞれの可能性(個人的幸福、個人的幸福を一時棚上げにすることによって社会を構築し、その義務を履行することによって社会からの報酬と権利を享受すること、つまり性的快楽の追求と禁欲的奉仕を並列的行為群として認識することが出来ること)を並列的に認識することによって生活全体を自由と責務の配分によって調整することが可能となったことが人生全体から諸々の行為を位置付けるメタ認知が可能となった。だからこそ言語を、その概念把握とか言語を通した論理を構築することがより円滑に行われるようにするための手段として利用することとなったのである。
 人間が人間的であるとか理性的であるとかされるのは、一重に一年中性行為が可能であるのに、その可能であることだけに感けることなく、いつでも家族的幸福を追求することは可能なのだから、オフの時間以外は有効に社会活動へと奉仕し、他者と協力し合うという選択をなすことが出来た、それもまた一重に人間だけが性行為一年中可能ということと、その事実を認識することを別個の事態として自らの脳内の思惟において並列化する能力に端を発している。つまり理性とはそのような並列事実によるメタ認知と、そのメタ認知を個人の幸福追求と、他者、引いては社会との協調の中に位置付ける更に高次のメタ認知へと飛翔させる認知的進化の発現能力に他ならない。だからこそ配偶者を性的パートナーであると同時に社会協力者としても認識可能となっていたのだろうと思う。
 さて品詞論へと移行しよう。動詞や形容詞とはそのものを使用する際に表情が肯定的な事態の表現とそうではないものとの間では明らかに相違が顕在化する。喜怒哀楽と単純に示される感情様相にその都度随順した表情の類別性を常に伴っているのが動詞使用と形容詞使用に他ならない。
 そしてビジネスオンタイムにおける我々の生活を表現する動詞、形容詞に対する価値論的な評定と、オフタイムにおけるそれとは対立する要素もある。ビジネスそれ自体を楽しむという心の余裕は、現代社会で経済的余裕を獲得した個人乃至は社会全体の希求によって発生するので、それ以前には仕事が楽しいという観念などもっての他であり、寧ろ責務遂行という観点から言えば、非娯楽的、我慢の時間という風に考えられる。そこでは真面目な、勤勉である、実直であるという形容詞が想定される。(真面目はともかく、勤勉、実直という言葉それ自体は明治期以降のものだが、意味論的にそれに類するもののことを私は言っているし、この三つは確かに名詞であるが、その名辞性は明らかに形容詞から派生したものである、と捉えられる)そしてそのものを今度は家庭内、あるいはオフタイムでの幸福追求において捉えると、否定的ニュアンスになる。つまりただの堅物であるというレッテルを貼られる。と言うことはつまりこのビジネスオンタイムとオフタイムとでは自ずと形容詞レヴェルでは全く異なった様相のものが主体ということになる。それは動詞でもそうである。遂行する、とか履行するとか、果たす(尤もこれは家族との約束を果たすということでも使用されるが、実際はまず社会内責務遂行から派生していると考えられる)とかの動詞はビジネスオンタイムにおける価値論を基本としている。それに対して楽しむ、寛ぐ、遊ぶといった動詞は明らかにビジネスオフタイムの精神活動、あるいは娯楽活動に端を発している。つまりあのJ・L・オースティンがパフォマティヴとコンスタティヴという二分法において動詞を些細に分類した根拠とは、この生活全体におけるオンタイムとかオフタイムとかの精神活動そのものの表情、つまり精神的な作用のニュアンスの違いに端を発した考察だったのである。・そしてそれは例えば通例では仏頂面だけであると思われがちなビジネスシーンでも、オンタイムの従業員たちは、オフタイムのユーザーを相手にしているわけだから、当然ユーザーが気持ちよくサーヴィスを受けたり、商品を購入したり出来るようにその際の会話をスムーズにするように双方が心掛けている。それは社会活動として友好的な対話ムードを作るということである。それもまた一つの社会ゲームである。
 だから当然犯罪者は犯罪目的遂行のために、表向きは善良な市民を装い、友好的ムードを作ることに余念がない。あるいは敵対する相手に対して対話で友好的ムードを装い、その実策謀に相手を巻き込むことを考えている輩にとっても、この会話をスムーズに進行させることに対する配慮は社会ゲームとして前提されている。要するに「私は話しやすい人ですよ。」というサインを表情という原サインにおいて示すのだ。
 会話しやすい環境を構築するということが社会ゲームとしての前提であり、そのゲームの維持こそが社会活動に他ならない。社会ゲームが理性を要請してきたとも言えるし、端的に責任、良心、義務、権利といった諸観念もまたこの社会ゲームとその維持という社会的事実が我々に齎してきたとも言えるのである。つまり言語とはこのように社会ゲームという不可避的人類の集団行動によって派生した恩寵である、と言えるのだ。言語が概念を作るのではない。言語が諸観念を作るのでもない。概念や諸観念そのものの発生的事実の集積と、その集積事実に対する認識、即ちメタ認知能力こそが言語を我々に引き出させたのである。
 だからもし表情と行動との関係を把握しようと思うなら、当然この社会ゲームが社会的諸観念、諸概念を発生させるという事実にまず向き合わなくてはならない。社会ゲームには全ての成員が多少の精神的心の持ちようが異なっていても尚、等しく感じられる規約、つまり自己‐他者という観念が共有されているという前提が必要である。犯罪者でさえ基本的にはまずこれに随順しつつじきに逸脱しているということだ。それはいざ会話するとなると会話しやすい環境を主体に整備するという行為選択の定着である。
 つまり他者への懐疑、羨望、嫉妬、憎悪といったネガティヴな感情は最初からそういうものとしてあるのではなく、最初にまず信頼し合うという場、スムーズに意思疎通し合えるという可能性に対する認識が、その実現を阻まれることによって発生すると考えた方がよい。それらは肯定感情という前提の上の成長した否定感情なのだ。

 俳句制作者たちは彼等の集団を結社と呼ぶ。この集団は月一回というような句会と呼ばれる集まりで自分で作った句を披露する。そしてその中からいい句を選ぶ。投句したものの中から選ばれるものは、大勢の人によって選ばれたものとなるが、往々にして本当にいい句というものは少数の人間だけが選ぶもの方である。例えば三句ずつ選出して(選句と言う。)その全ての出席者の選句を集計して選ぶトップとは、要するに一人が三句選ぶ場合、最もお気に入りのもの以外は、無難なものを選ぶ傾向にある。そして最も個人的にお気に入りの句というものは個性が強いから寧ろ少数のカルト的ファンだけのためのものである。そしてそのカルトファンたち相互では価値観は受け容れられない。しかし無難な句というものは主観的には好きではないが、客観的に纏まりのいいものである場合が多いから、当然俳句制作者個人の好みから言えばやや平凡なものとなる傾向がある。これはよく売れる通俗職業画家の絵に近いものである。俳句制作者たちが自然をテーマに句を発句することを吟行と呼ぶが、こういう時にも無個性的作品だけが選句集計ではいい得点を稼ぐ。しかしその評定性と芸術性はまた別個の問題である。
 俳句制作をしてその俳句句会形式を記憶の問題と結びつけて論じたものが西村佳寿夫(私の父)の「ペーハーの俳論_篠原梵の解体_」である。彼は同郷である師と仰ぐ篠原梵(中央公論の編集長などをして出版界で活躍した俳人であるが、あまり結社で弟子を取ることに熱心ではなかったので、知る人ぞ知るタイプの天才俳人と言われる。愛媛県伊予市上野出身。臼田亜浪、川本臥風に師事、亜浪の「石楠」に作風は拠る。改造社の「俳句研究」昭和十四年八月号の座談会にて山本健吉司会の下、「新しい俳句の課題」に中村草多男、石田波郷、加藤楸邨と同席し、人間探求派の一人と称される。明治43年~昭和50年。)の句と、用言止めを好んだ師の句制作傾向を、体言止めを好んだ石田破郷と比較検討して論じている。座して嘆じるの姿勢であった石田に対して、俳句に動勢と句構成的メカニズム(主客の関係性をよりクローズアップさせた)を導入した先人として西村は篠原を高く評価している。それは本家取りとかの古典趣味や風流をある意味では否定する考え方であった。
 そして本論がユニークなのは、西村が指摘していることには俳句とは国際的には短歌以上のものがあることの理由として七記号以下の語句の連なりが極めて短時間記憶(短時間に最も効率よく正確に記憶出来ること。)の最大効率的な記憶定着の長さである、ということである。これはジョージ・ミラーなどによる実験で明らかにされた考え方であるが、それを俳句が世界的隆盛となってきていることと結びつけたところに西村の論のユニークさがある。そしてその記憶作用と句会形式のみを後世に伝え、それ以外の風流趣味的部分は寧ろ瑣末なことでしかないという主張が篠原から意志を受け継ぐ西村の主張であった。
 実は最短の長さで効率よくしかも内容あるフレーズで記憶に残させるということは昨今のある政治家のワンフレーズポリティックスを想起させるが、要するに多くの衆目の印象に残る作品とそうではない作品というものの差は、ある意味では芸術的価値が仮に稀少であっても、流通性という観点からは特筆すべきものがあるかも知れない。だからそういう価値とは芸術性のものである俳句でなければ、寧ろ歓迎である。
 そして興味深いことに名句というものがある句会に出席した者にしか分からない場の雰囲気、つまりその日の天候、句会の場所、集まったメンバーの顔ぶれといったことと句制作(その時に作ったものでなくても)を巡る状況と相まって、相互作用をして名句が発掘されるわけだが、その選者たちの精神状態と選句の傾向は充分密接な関係があるが、いざそれが印刷され、世間に周知されると、今度はそのような名句誕生秘話とは下世話な専門家、好事家好みのネタでしかなくなり、普遍性を帯びるようになる。このことは句の持つ創造上でのモティヴェーションと、それが一旦公的なものとなった時とのギャップという問題となるが、第一章で私が述べた真理領域の問題、つまり完全理解よりも部分理解可能な領域の方が言語においては重要なのだ、だからこそ篠原の目指した、あるいはそれを西村が汲み取った俳句制作を巡る私的な動機中心主義(古典趣味や、座して嘆じるデカタンス)からの離脱という志向性に意味を生じさせることとなる。理解というものの本質とは、その理解されるものの背後や背景といった個別性よりもそれらを排しても尚残存する普遍性の方により比重がかけられている、ということである。
 つまりあるいはそういうものとして初期人類にとって法や法的な様々な規約というものが発生し、それと相補的に各動詞、形容詞、あるいは名詞のカテゴリー別にそれを使用する者に個別のニュアンス、つまり言葉としての表情を付与するような品詞性格、傾向性、あるいは文法として統合される時の傾向といったものが構築されていったと考えることが出来る。ある意味では優れた芸術は、その短時間記憶とか、長期記憶に残りやすいキャッチーなフレーズという考え方そのものをメタ認知したものである、とも言えるのではないだろうか?
 つまり芸術はその意図がそう容易に理解され得ない(少なくともその作品が作られた時点では)ということにおいて、その時代を先取りした観念があるのだろう。つまりキャッチーさそのもの、つまり「皆の印象に残るものとは一体何なのだろうか?」という命題に対する一つの回答として示すということに何らかの工夫が施してあって、その読み方、回答の受け取り方が一筋縄ではいかないというところに時代を先取りした観念がある、というわけである。それは寧ろ安易なアレゴリーやメタファーではないだろう。寧ろ余りにも生であることによってそれが回答の明示であるという風には俄かには理解され得ないというところに芸術の主張の本論がある。それは大人の保守的な相互の羞恥を隠蔽し合う配慮というアンシャンレジームに対して子どもの心で羞恥自体の内的メカニズムを暴き立てるような所作としての改革心があり、その改革という意志は要はそう容易に見抜けるものではない、つまりそれ相応の学識が要求される、ということである。
 つまり法による大胆な改革とか、政治上の改革とか、芸術上の実験といったものには皆共通した主張があり、それは内的な羞恥それ自体の正体に対する真摯な言及なのである。それは子どもの羞恥をそのまま温存させようとする変更不可能性に対する安住に対する異議申し込みなのである。「それを恥らうことの意味を私は知りたい」という主張なのである。そしてそれを支えるものとして全体理解の不可能性に対する自覚と、部分理解の偏在性、普遍性に対する歓迎の意図がある。それは端的にコミュニケーションというものの本質なのである。そしてそのことが私の「意思疎通の場の前提条件は信頼出来る関係構築という肯定的なことであり、否定とか対立といったものはその場設定後の行く末によって生じるものである」という考えを裏付ける。
 我々は道を人に尋ねる時に「あの、すいませんが、」と言うような前置きをするし、朝すれ違う社員に挨拶するところから一日の仕事はスタートする。その際にお辞儀をしたりするが、尤もこれは西欧社会ではないことだけれど、笑顔で接するということは向こうでも定着している。要するに意思疎通可能な成員同士である旨を報告し合うジェスチャーとかサインを言語の発生論的なミニマルな要素として認識してみよう。
首を縦に振るか横に振るかということに関して大人も子どももそう変わりはないだろう。眉間に皺を寄せて話をしようとしているのか、それともほ朗らかな表情で相手を見つめているのかという相違は、場の空気感を支配する。それが最初に意思疎通する時の場の空気を醸し出す。そして言語行為の進化と発展は、私は肯定的感情による場空気が齎してきた筈だ、と言った。それは例えば肯定的な首を縦に振ることの方が大人と子どもでは最も変わりないだろうということからも明白である。だが否定的素振り、つまり首を横に振ることを子どもは何の抵抗もなくする。しかし同じことを大人がすると角が立つこともある。だから断り方の巧みさこそが大人社会のソフィスティケーションと言ってもよいだろう。そして大人と子どもとが最も変わりない部分は、恐らく上司から説諭されたり、説教されたり、訓戒を受けたり、そういうネガティヴな評定に自己を晒してしまっている状況下でのしゅんとなった時の表情で、それは大人も子どもも寸分も変わりないだろう。と言うよりこういう時我々は一瞬にして子どもに戻るのだ。と言うことは社会活動が円滑に機能するために大人が配慮しなければならないこととは、訓戒したり、説諭する時に真理領域的相互理解を誘引するような柔らかい口調と、表情が求められるということでもある。受動的なことにおいて子ども社会と大人社会に違いはそうないが、能動的なことにおいて、否定的伝達と責務的な拒否的攻撃性、とりわけ断り方もそうであるが、つまり叱り方において大人社会はある一定の力量が要求される。信頼される上司か否かは褒め方で決まるのではない。叱り方で決まるのである。
 故に大人社会では真理領域の理解こそがモットーであるとつい考えてしまうが、私は子ども社会こそ真理領域前の、つまり先述の例で言えば、俳句制作者が、俳句を紡ぎ出す、句会とか創作仲間との交際とか、作品を成立させている背景に最も敏感である、と言えるし、つまり逆に大人社会とはそういう意味では鈍感力の醸成において人的交流が全うされるということを意味するのだが、要するに子どもは表情というものに敏感な生き物である。だから童話を聞かされても、その説話の意味内容よりも、その話を語り聞かせてくれる親の表情や、目上の人の表情全般が最も気になる事項なのだ。そのことを「アンデルセン童話集(Ⅱ)おやゆび姫」においてゲオルク・ブランデスが次のように書いている。
「書かれた言葉は貧しく、また不十分だ。話す言葉は、話すにつれてのいろいろの口の動かし方や、形容のための手ぶり、声の長短や、鋭さ或いは穏やかさ、まじめな或いは滑稽な響き、全体としての顔つきや態度といった、一群の授けをもっている。話かけられる相手が幼ければ幼いほど、彼はこのような補助手段を通してより多く理解するのである。子供に話をして聞かせる者は、誰でも無意識のうちに、いろいろと身振りをしたり、顔をしかめてみせたりする。つまり、子供は話を、耳で聞くと同じだけ目で見るからであり、まるで犬と同じように、言葉に善意がこめられているか怒りがこめられているかよりも、口調がやさしいかとげとげしいかに注意するからである。だから子供に向かって書く者は、音調の変化、突然の休止、描写的な手まね、恐怖を起こさせるような顔つき、眠りこんでいる興味をめざめさせるような事件の展開をしめす微笑や冗談や愛撫や訴えかけを駆使して、それらすべて叙述の中に織りこむように気をくばり、また時に応じて直接に子供の前で歌ったり描いたり踊ったりしてみせることができないのだから、彼の文章の中に歌や絵や身振り手つきを呪いこめて、それが呪縛された力のようにその中にひそんでいるようにしておき、本があけられるやいなや、それが立ち現れるようにしなければならない。」(新潮文庫 山室静訳、288~289ページより)
 子どもに対して嘘をつくことが難しいのは、子どもは完全理解を望むからだ。子どもには部分理解でよしとする社会観はない。しかし価値論的に大人は子どもの完全理解を望みもする。と言うのは愛する者同士、とりわけ親子や夫婦、恋人同士の関係では、ビジネス上での取り繕った表情をすることを敢えて避けたいと望むからだ。「家族の間で隠し事をするのは止そう」とか「何でも私に相談して」と配偶者へ持ちかける態度で、偽装性を排除して、誠実で真摯に臨みたいという気持ちを大人が持つということだ。
 表情が最初の言語であり、挨拶の最も大切な第一歩であることから、例えばテレビのアナウンサーは何か不測の事態が起こったからこそ、それを報じるわけだが、仮に若い世代のアナウンサーでも老齢者や年配者しか知らないような著名人や政治家が死去した時、あたかも一瞬喪に服すような表情を浮かべるが、これは責務偽装である。彼等が実際は知らない人の死去ニュースであってもだ。しかしこの偽装性は営業畑のビジネスマンは全ての人員が心掛ける所作である。
 そういうものと愛し合う者同士の表情は本質的に違うと我々は通常考える。しかし寧ろその二つを分けて生活するということは、逆にどちらも偽装性が皆無ではない、あるいは誠実性とか本音を示す表情というものがあるに違いないという、つまりそういう真意の表明をするには一定の意志を要するという事実を物語っているに過ぎない。愛し合う者同士だからこそ杓子定規な挨拶や儀礼や、取り繕いを排して臨もうという配慮そのものに、基本的に他性というものを携えて社会生活する者の越えがたい自己‐他者の壁を感じさせずにはおかない。
 例えばセックスはボディーランゲージである。しかしセックスの最中に相手にエクスタシーへと高まりつつある風情を示すことにおいて我々は快楽を享受しているから、陶酔の表情をするということ以外にも、結構な比率で陶酔の表情をすることによってセックスという特殊状況をより効果的に愉悦として受け容れたいという側面も否定出来ない。つまり愛情とか友情とか信頼がある一定の期間(決して短くはない期間)持続させるために我々は一定の配慮と努力をし、相手に対して斟酌し合うという関係を取り結ぼうとする。そしてその一環としてセックスの最中に感じあう振りをするとか、相手を極自然な愉悦の表情を取り繕うことによって喜ばそうとすることそのものを殆ど自動的に愛情に付帯する義務の如く感じるというのもまた大人の部分理解の真理領域死守性である。
 愛情や幸福の完全把握という幻想を生きる我々にはこういった配慮を極自然なものとして円滑に行うことを、寧ろ営業畑の人間がビジネススマイルをすることと、実際上何ら変わらない家族愛、友情、男女の機微といった責務性を、全てを並列的に認識する能力の発現であると捉えれば、ややニヒリスティックに過ぎるだろうか?
 しかし退屈な会議、例えば参院予算委員会とか、そういう場でじっと座って様々な人の報告を聞くだけの大臣クラスの人々にとって居眠りとは最も魅力的な無意識欲求である。私は第一章で意識することの多くが、魅力的だが忌避すべき無意識に対する抵抗であると捉えたが、そのような無意識の排除こそ社会生活上での責務偽装によって問題を引き起こさないように配慮している我々の日々の努力において散見することが出来る。
 だから取りたくはない新聞の勧誘員に対してさえ、我々はあまりにも邪険に扱うことを回避するのは、新聞購読者を勧誘する営業活動もまた、社会機能維持のための一環であるから、仕方のない現実であると受け容れているからだ。しかし邪険にしないまでも、関心のない振りをすることで早々と別の一戸へと立ち去って欲しいと願うだけのことである。
 自己の欲求を意識することが出来るのは、ある欲求が満たされていないということに対する覚知によってである。だから無知において欲求は生じ得ようもない。と言うことは欲求を欲求として意識出来るということは知識、認識、対外部的情報摂取と密接にかかわっているということを意味する。無意識に欲求することもまた日常的に排除すべきものであるなら、我々は自動的に何か欲する、例えば喉が渇いたとか空腹感に苛まれるとかのこと、あるいは排泄したいと感じたりすることを除いて、無意識に他者の言に対して退屈な感情を抱くことを悟られないようにするとか(例えば参院予算委員会で与党政治家が野党政治家に対して採る最低限の敬意を持った態度等)の意識的努力が必要とされる。そしてそれは表情に無意識の願望が自動的に出ていないように振舞う努力以外の何物でもない。
 欲求とは意識的になった段では明らかに自己内での欠乏、外部的情報による自己内の不足状況によって齎される我々の心的作用にとって認識論的な現象でしかない。
 哲学で言うところの現象論も機能論も共にある全体であると認識されたものの中から把握する変化様相に対する経験的な後付けでしかない。例えば論理学者や言語学者たちが哲学的に自然言語と人工言語とを峻別して認識するのは、日常言語から我々が真理領域的把握によってア・ポステリオリに認識してきた部分理解の普遍性に対する無頓着な信頼が糧になっている一つの仕方にしか過ぎない。
 言語学者の考える人工言語とは彼等の論理を実証するための予め恣意的に選ばれたセンス・データの一つでしかない。その論理の実証に相応しくないものを予め排除した偏向した例でしかない。しかし人工言語そのものの正体を、あるいはロボットのようにただ人間の命令に従って動く物体に備わっている心(=擬似心)の正体が把握出来ていないということと同様に実は我々は人工言語を通した真理理解というものに対する正確な理解をしているわけでもない。これは部分理解でよしとする私の分析によって溜飲が下げられるものでもない。
 哲学者の信原幸広は「意識の哲学」(岩波書店刊)において第五章<感覚の客観化>において滑らかな視覚的クオリアと触覚的クオリアが実在する物体において一致すると脳で勝手に我々が判断することそのものは経験的な蓋然性に依拠するものである筈だということを言いたいために、敢えて視覚的な認知と触覚的な認知が脳で統合されていたとしても、その滑らかさそれ自体は、カントの言った物自体と同様決して把握し得ているわけではない、ということを次のように述べている。
「(前略)性質それ自体は、われわれにはけっして知りえない性質である。われわれが知りうるのは、何らかの仕方で表象された性質である。われわれは手でテーブルに触ることによってそれが滑らかであることを知りうるが、そこで知られるのは触覚的な滑らかさであって、いかなる表象の仕方からも切り離されて滑らかさそれ自体ではない。滑らかさそれ自体はけっして知られない。」(167ページより)
 ここで信原はヒラリー・パットナムの示した「水槽の中の脳」という発想をも彷彿させる我々の脳内現象である認知世界を即実在である信じてしまうという哲学的懐疑主義的な見方をクオリア論理学的地点で採用している。そしてその懐疑主義と、実在現象論的な、あるいは実在信仰幻想論的な考え方は表情と行動においても適用出来る。
 我々は他者の心の中を覗くことが出来ない。しかしある表情をした他者の振る舞い全てから他者の心が安定しているのか、あるいはざわついていて不安定であるのかをその都度判断している。それは終ぞ完全に知り得ることが不可能であるからこそ、その認識的欠乏状態によって逆に「知りたい」という欲求を掻き立てられるという欲求発生論的な心的メカニズムを他者の表情と心の中という関係の理解、判断に採用していることになる。
 そして表情そのものの意味を最も有効に把握することが可能なものとして、我々は他者の行動に対する認知を選ぶ。それは丁度彼の行動というデータを下にして彼のそれまでの行動パターンから弾き出される統計的な真理値を巡って、彼の表情の示す意味が、行動を反映しているということを確認することが出来るという意味では、言語学者たちがある一つの日常言語から、その背景やその陳述を齎した意味を探るために、その者の発言傾向を巡って彼の行動と発言との相関性を示した新たな人工言語を発見する努力に等しい。
 彼はああいう表情をしていたが、あの時普段だったらああいう表情をした後に彼が採る行動から推察するに、あの時の表情は我々がそこに認めた判断は誤っていなかった、つまり彼はその前に起きた例の事件によって意気消沈していたのだ、と自殺した友人の最後に皆が見た表情を慮ることにおいて示される目撃者たちの判断基準の正確さを確認し合う場面で見られる認識は、つまり言語学者の産出した人工言語のようなものである。
 家族だから秘密を持たないようにしよう、とか愛し合う男女だから全てを告白し合うようにしようという考えは、実はそれをしなければ全てがご破算になってしまうという極めて脆弱な信頼性に対する安全地帯とリスキーゾーンとの隣接した状況を物語っているに過ぎない。それは親しい者同士ではビジネスの際に顧客に見せる表情とは違った本音の部分を見せ合おうという意識そのものが、ある一定の制度的呪縛(理想の家族像といったものを産出する文化的状況)に絡め採られた思惟でしかないことを物語る。ある意味ではビジネスとは「その仕事をして食っている」ということの表明なのだから、最も真意を表明した行為である。つまりビジネス的な責務偽装とは言ってみればそれ自体、「ビジネスの建前を遵守しましょう」という真意の最も明確な人間の行為であり、ビジネス上でのスマイルという偽装とされた本音があるからこそ、逆にそういう勤務中以外の家族団欒での寛いだ雰囲気を人間が社会ゲーム全体の中で獲得出来るのだ、と言えるし、それは自己存在に対する認識が他性認識を起点としていることと相通じる論理でもある。
 人間の行為の全てが社会ゲームとして位置付けられるとしたら、恐らくセックスの際の表情や体位変更する所作、あるいはセックスオーガズム時のエクスタシーの表現である呻きや喘ぎさえもが、言語行為として位置付けられ、ビジネススマイルや、家族での団欒での表情とか、友人との間でしか言えない本音を語る時間での笑顔といったものと並列して人生を構成する要素として認識される、という意味では私たちに私たちの行動や思惟に真に野蛮なという意味での自然な場面は皆無である、と言ってもよいかも知れない。ある意味では人生全体が<人間がホモサピエンスとして種行動を採る>という自然であるという意味での自然であると言う以外では、全ての時間はその自然を構成する中の恣意的な、人工的な行為であるとさえ言える。つまり社会ゲームを一時も我々の脳は離脱することなど出来はしないのである。
 現代の脳科学や心理学においてさまざまな実験的データから明白となっていることとして、第二章の初めで示したダマシオ等による見解によると、人間の身体はまず情動を発動し、然る後感情を持つということだ。それは要するに池谷裕二の言葉を借りれば、「感情というクオリアは脳の活動をダイレクトには決定していない」(「進化しすぎた脳」朝日出版社刊)ことになるが、このような発見は何も今世紀において、あるいは20世紀の後半において特筆すべきことのようによく語られるが、実際脳が判断して、それを感情に置き換えている(意志ではなく、脳が)ということは恐らくフロイトも考えていたことではないだろうか?つまりそれを否定したいのは宗教家とか一部の狂信的な哲学者(自由意志絶対主義者)くらいのものであろう。身体は自動的に全てに反応するし、その自動性を無意識として処理してきたのが精神分析である。しかし意志したと思った瞬間よりも脳が判断した瞬間の方が逆に現代脳科学に逆らって遅かったならば、我々はとっくに絶滅していただろう。そういう観点に立てば、「表情は偽装していたとしても、その人間の感情を読みとれる」と考えるよりも、既に表情は身体の反応を全て集約していると考えた方が理に敵っている。寧ろ悲しい表情をすると自然と悲しくなるだけのことである。結婚して今幸せな人が葬式で楽しい表情をすることが出来ないから、悲しい表情をしていると、自然と涙が出てくるような意味で、我々は表情を取り繕うのではなく、外部的な強制力と随伴して自動的にある表情を構成している。
 と言うことはダマシオの言うように情動が感情を喚起するということを前提に考えれば、ある情動を最も如実に反映している表情が感情を呼ぶという私の提案は正しいことになる。楽しくなくとも楽しい表情をすれば楽しくなるのである。あるいは仕事で本当は楽しくないと思って接客をしていても尚、笑顔で接客すればじきに客と応対していることそのものが楽しくなるという意味では私が責務偽装といったことは、家庭で何らかの悩みを持つ者でさえ、職務中の責務によって寧ろそういう悩みを一時忘れることが出来るという意味では表情の偽装とは、致し方なく偽装しているのではなく、主体的に(?)偽装していると言ってもよいものである。つまり表情を作ることそのものは脳の命令であるから、その命令に従って人間は感情というクオリアをどうにでも変化させることが出来ると捉えた方がよい。感情(扁桃体によって作られているとされる)をコントロールするのも脳である。つまり情動を前頭葉が意識することによって感情が認識されると考えてもいいことになる。
 何らかの外部の状況に呼応して人間はその外部状況に対して何らかの判断、感情的反応を示すわけだが、その際に次に採るべき行動を決めているものをたまたま我々は理性と読んできただけのことである。だから感情をコントロールするものもまた理性であると捉えてきたことにも繋がる。
 だから楽しい踊りをしているのに、嫌な気分の表情をすることが却って不自然で難しいような意味で、表情はその表情に相応しい行動を我々に採らせるのだ、ということはある意味では尤もなことである。尤も社内でダンス大会があって、普段そういうことをしたこともないので、必死に同僚や部下に教えて貰った上司が苦虫を噛み潰したような表情でダンスを踊る姿というのは考えられるが、それでもそのこと自体が楽しければ、巧く踊れなくて擬古地なくても尚表情は晴れやかなものである筈である。ただ彼がプロのダンサーのように表情にユーモアを交えるくらいの余裕がないだけのことであるに過ぎない。
 薬学専門で脳科学に勤しんでいる池谷は動物の言語は要するにサイン(信号)であり、人間が豊かな感情のクオリアを持つことは、言語を獲得しているお陰であると考えているが、実際感情の襞とか感情そのもののニュアンスや表情は、言語に誘発されているという部分も大きいだろう。しかし言語を使った何らかの行動を起こす意志決定の合理化をなすものの本体は言語ではないだろう。あるいは言語を利用してクオリアの襞を複雑化しているその全体を誘引するものもまた言語ではないだろう。それこそ情動によって喚起された感情と言えるのではないだろうか?確かに感情を複雑に表現出来るという事実は言語が我々に誘引した能力だろう。しかし同時に仮に言語を我々が獲得してなくても尚、行動を正当化するための脳活動そのものはある種の非言語的な論理のようなものに支えられて、その場その時の最も合理的であると考えられる判断をしているのではないだろうか?つまり我々はそういう状態というものを「仮にそうであったら」と想像するしかないということだけのことである。
 人間の本意や真意は一つだけではない。それは人間の記憶能力が他の動物に比較してずば抜けているということからも明白である。例えば売れっ子のライターや小説家たちは月に何本も同時連載している。そういう場合それぞれの連載ものに対して払われる注意は等価であるように訓練されている。だから寧ろ一本の仕事に集中している場合の方がよりその展開において行き詰るということはあり得ることである。実際心理学者のアリス・W・フラハティーはライターズブロックと呼ばれる書き手によるスランプは、逆に書きたいという病ハイパーグラフィアと裏腹の関係にあると考えている。例えばある有名な作家は書くことの出来ないスランプ時にも、手紙で親しい人に長々とその生活状況を記した文面を書き送っていることを例に、つまり本当に何も書けないのであれば、手紙等書き送ることなど出来はしないと考えている。と言うことは小説や論文、エッセイと様々なスタイルのものを同時並行させて書く著述家の方がよりスランプに陥り難いということは言えるだろう。それは小説を書く時に働く脳内の思考の表情と、論文を書く時のそれとでは異なるということも言えるし、小説に対するスランプをエッセイが救ってくれるということもあり得るからである。丁度それは絵画制作に行き詰った画家が一時平面から離れて彫刻や陶芸を作ることでスランプを回避するのに似ている。また先述した家庭に悩みのある夫が、職場で仕事に打ち込むことで、一時悩みから開放されるという例からも言えることであろう。
 だから恐らく感情をコントロールすることよりも表情をコントロールすることの方が我々には困難ではないだろうか?表情が曇ると、感情をコントロールして楽しくしようとすることは出来る。しかし楽しい表情を浮かべるという意志は、曇った表情をしていたからである。だから曇った表情を作っていた感情をコントロールすることによって自然と表情は晴れやかなものになる。晴れやかな表情になれば自然と感情は安定してくる。
 だから私が先ほど「人生全体が<人間がホモサピエンスとして種行動を採る>という自然であるという意味での自然であると言う以外では、全ての時間はその自然を構成する中の恣意的な、人工的な行為であるとさえ言える。つまり社会ゲームを一時も我々の脳は離脱することなど出来はしないのである」と言ったことの背景には、行為を意図的にしようと欲し、意志的に感情をコントロールすることそのものが社会ゲームでの規則であるのなら、先験的にそのゲームに参加する参加者としての主体的、非主体的な表情そのものは既に我々に与えられているということではないだろうか?それは意志する以前に脳がそれを決めているという脳科学の見地からも証明されていることではないだろうか?だからこそ逆に表情をコントロールすることそのものがアクターにとっての演技論であるような意味で、我々通常の市民にとっても重要な社会ゲームの参加者としての心得となっているのではないだろうか?
 私は子どもには嘘をつくことが難しいと言った。それは子どもは責任倫理的な意味合いから「もしそれが嘘で建前的なことであっても、態勢には影響がない。」という発想がないからに他ならない。大人とは適度に必要なことだけをしっかり覚えておき、後は適当に忘れておこうという決意を難なくこなせる生き物のことを言う。それに対して子どもはそういう世間的な智恵というものには疎い代わりに、洞察力が鋭い。(そういう意味では芸術家とか学者といった人種は須らく執拗な観察力が優れているから、子どもの持つ目新しいものに異様に好奇心を抱く心を失っていない、つまり既知感というものに疎いということ、つまり何にでも新しい発見をすることが出来るということである。)
 しかし私は子どもの心を全て大人が失っているとも考えていない。つまり表情というものに対する感知ということに関しては大人も子ども以上に洞察力の優れた人は大勢いる。
 そして表情は建前的な責務偽装をする(デパートや大手スーパーの店員が客全員に等し並に笑顔を作る、テレビカメラの前のアナウンサーが笑顔を取り繕うこと)から、大人社会では全て表情を通り一遍の記号として読む、喜怒哀楽を単純に、こういう感情の時にはこういう表情をするものだから、そういう感情なのだろう、と割り切れるほど、つまり偽装と真意の表出した表情の区別がつかないほど愚かであるなどとは思っていない。
 信原幸弘氏は哲学者として痛みの感覚について「心の現代哲学」において、そして脳科学的、心理学的考察として倫理と知覚の関係を考察した「考える脳・考えない脳」、そしてクオリアに関して多く考察した先述の「意識の哲学」などの秀逸な仕事をされてきた方だが、私は氏の言語を解釈記号として捉えている認識に多少疑問を抱いている。少し長いが氏の「意識の哲学」から引用してみよう。
「(前略)思考が内語/発語だとすると、意識的な経験が思考に変換できるということは、意識的な経験の内容が言語化できるということである。トマトが赤いという意識的な知覚経験をもつとき、わたしはトマトが赤いと考えることができる。つまり、「トマトは赤い」という内語/発語を言語表現の内容に変換できるということである。意識的な経験は、その内容が言語化できるような経験なのである。(改行)そうだとすれば、経験の意識的な志向的特徴も言語化可能である。わたしがトマトが赤いという意識的な知覚体験をもつとき、この経験は赤という意識的な志向的特徴をもつが、わたしはこの特徴を「赤い」という言葉で表現することができる。経験の志向的特徴が意識的だということは、それが言語化可能だということである。クオリアは意識的な志向的特徴であるが、その意識的というのは言語化可能ということである。それゆえ、クオリアは言語化可能な志向的特徴だということができる。(改行)意識的であることが言語化可能として捉えられるとすれば、言語をもたない者は意識をもたないことになる。サルの眼前に赤いトマトが立ち現れることはない。赤いトマトが立ち現れるためには、サルがトマトが赤いと考えることができなければならない。しかし、言語をもたないサルには、そう考えることができない。そう考えることは「トマトが赤い」と内語/発話することにほかならないからである。われわれは、サルが赤いトマトに手を伸ばしてそれをつかむことができるのは、サルの眼前に赤いトマトが立ち現れているからだと考えたくなる。しかし、そうではない。サルはそのような意識的な知覚経験をもたない。サルがもっているのは、眼前に赤いトマトがあるという無意識的な知覚体験だけである。そのような無意識的な経験があれば、赤いトマトを手につかむのに十分である。サルは言語をもたないため、赤いトマトがあると考えることができない。それゆえ、赤いトマトがサルの意識に現れることはないのである。(改行)言語をもたない者は意識をもたないということは、われわれの直観に反するかもしれない。しかし思考が言語活動だとすれば、そうならざるをえない。われわれはサルにも意識的な知覚経験に基づいて自動的な行動をするだけではなく、それに基づいた思考を行い、選択的な行動もするから、サルにも意識的な知覚体験があるのだ、と。しかし、思考が言語活動だとすれば、言語をもたないサルは思考をもちえない。したがって、選択的な行動を行うことができない。サルはもっぱら知覚経験に基づいて自動的な行動を行うだけである。サルが選択的な行動を行うようにみえるのは、すでに指摘したように、自動的な行動も個々の状況に応じた柔軟な行動でありうるからである。サルはそのような柔軟な自動的行動を行うだけである。サルはけっして意識的な知覚経験をもつわけではないのである。(改行)意識的な経験は選択的な行動を可能にするものである。しかし、選択的な行動は思考によって可能となり、思考は言語によって可能となる。したがって、意識的な経験が選択的な行動によって可能となり、思考は言語によって可能となる。したがって、意識的な経験が選択的な行動を可能にするためには、それは言語化可能でなければならない。意識的であると言うことは言語化可能ということなのである。」(193から195ページより、第六章 意識と言語中、3 思考と言語 より)
 
 まずここで私にとってネックとなったことと言えば、思考は言語なしにはあり得ないという箇所である。勿論言語は思考を秩序づけるから、対他的に意思表明したり、明示したりするという意味では言語を獲得していない動物では一切思考を秩序づけることは出来ない。しかしそのことが直ちに一切の思考を働かせないということにはならない。漠然とした判断、分類は言語のない動物でも可能である。ただそれらの能力を我々人間の持つ思考能力とは並列的には論じられないということに過ぎない。哲学者自身がその人類に与えられた(彼等は付与されたと言うが)能力を基軸に全てを論じるという使命故致し方なさは付き纏うが、それでもその捉え方では思考というものを極めて限定的で狭い範囲だけで捉えることにも繋がると私は考える。
それに氏の仰るように言語は認識の道具であるばかりではない。寧ろ音声的なクオリアでもあるし、また思考そのものも、たとえ言語を基本とした論理的修辞性に多く依拠した考えを抱くにせよ、その言語統語論的な秩序や、論理の積み重なったものそれ自体には、非言語的要素も多分に含まれ得る。例えば論理や思考を積み重ね重層化すると、そこにある幾何学的形態像が現出する場合もある(勿論それは言語獲得をなしていない動物の持つ本能的直感とは異なるにせよ)。つまり理解そのものさえ、ある意味では言語的認識ばかりではなく、もっと非言語的なクオリア、その一つが形態であるし、時には色彩的なものもあるだろう(脳科学的には共感覚と呼ばれるものなどもそうであろう)。つまり一見言語認識だけであるような重層化された論理や、秩序、あるいは統語秩序そのものさえ、音声的クオリアや視覚映像的クオリアが立ち現れているということも多分にある、と思うのである。もし信原氏のような画一的な言語認識を持っていると、表情においてまさにロボットと人間が笑顔を示した時、その表情が説明的なもの以上の理解には至らないと言うことになってしまう。私はそのことにおいて表情を記号ではない、と言ったのである。
 人間は断じて顔を見ないでいる内はチューリングマシーンとの会話と人間との会話に区別がつかないことがあったとしても尚、顔を目にした時には、それが人間の感情が入った言説であるか、そうではなくただ開発者によってプログラムされ指示された言説であるかの区別くらいは直ちにつく、というのが常識ではないだろうか?ある意味では感情の理解という観点から言えば、ロボットと人間の表情の区別は犬や猫でも可能である。もし意識至上主義となってしまうと、動物には言語がないから、思考がないという信原氏の抱いておられる発想になるが、動物には非言語的思考が可能である、と私は考えている。それは人間とロボットくらいははっきりと区別がつく(従って動物に全く無意識以外のものがないとする考えは間違いであると私は思う。)くらいの意識、それを意識と呼ぶことに差し障りがあるのなら、明示的感情はある、と考える。
 信原氏は少々論理的無矛盾性に対して拘りを持ち過ぎているように思われる。つまり時には直観力に頼ることの方が、つまり理詰めで解決するよりもよい場合というものもあるのではないだろうか?つまり言語的秩序ではなく、言語的感覚とか、非言語的明示的感情を優先した方がより言語的にも理解しやすいということはあるのではないだろうか?
私は信原氏の「意識の哲学」の論法をクオリア論理学と勝手に呼ばせて頂いているのだが、実際クオリアそれ自体を論じる場合にも、論理的に理詰めで行うことに哲学的意味がある場合も多いが、時にはそれが却って弊害になる場合もあり、そういう場合には哲学者であろうとも、寧ろ非哲学的常識に当て嵌めて考えた方がよい場合もある、と考える。
信原氏の痛みと痛みの感覚それ自体を分けて考え、それを見ることと、見る感覚それ自体と分けて考えることが出来ることと等価のものとして言語=説明能力と捉えるやり方は、論理的考察を感覚に適用する際にも、特別な仕方をしないで臨むという認識から尤もだと思われるが、言語=説明能力と捉えることにおいて、私はやや短絡的であるという印象を拭い得ない。氏は思考というものを言語的思惟であると決め付けているが、実際私は言語でさえ非言語的要素が介入するものであると考える(それは結論で考えている得ることと引き換えに失われたものをもある程度残存させているということである)。勿論そのこと自体を言語的に、そして論理説明的に我々は置換しようとするのである。しかし同時に論理や説明、言語的秩序を支えるものとしての非言語、感情的起伏といったものを私たちは無視するわけにはゆかない。もっと言えば我々は論理的思考という枠組みの中でさえ、具体的な言語や、代数的な思惟だけではなく、幾何学的、映像具体的な想念を抱く。またクオリアというと、どこか静的なイメージで捉える向きも多いとも思われるが、実際動的なクオリアというものもあるだろう。尤も動的であってもそれがある定型に嵌めこまれている場合、それは反復可能な動きなので、動きそのもののその時の一回性に対する重視ではないから、当然静的な動性ということになるだろうが。つまりクオリアは記憶と関係があるだろう。そこでいつも同じ動き方であるものに対しては、我々はそこに変化よりも、定型というものを見出す。それは即ち静へと同化させ得る動である。つまりそれ自体パターン化された動きである場合、それは「今度もまたいつもの奴か」という想念を我々に抱かしめる。それに対して、その時に固有のある人の動き、あるいは表情は、その現出によってそれまでにない印象を我々に植え付ける。それは明らかにパターン化されたクオリアとは異なるだろう。そういう経験を我々は一番親しい筈の親子や、兄弟、配偶者の中にも見出す。親友の中にも見出す。
 そして私たちは他者に対する配慮という観点からある表情や、行動(特に他者に向けてなされる行動、あるいは発話も含まれる)を粒さに観察すると、それはある他者に対する「構え」を持ってなされるものであるから、「振りをする」ことであると認識しがちだ。しかし「振りをする」という「構え」そのものが他者にそのまま差し出されれば、当然そのこと自体が真意となる。つまり真意の表出と、「振りをする」ことが一致した地点として他者に対して「構えられる」態度は解釈し得ることとなる。
 例えば私たちは不正受給をしようとする者の提出する請求書に対して、彼等が「水増し請求書」として銘打って提出しないことを知っている。つまり正規の正当な権利としてそれを通常の「請求書」として提出することを知っている。しかしそれでも何らかの不正な額であるとその提出された書類から読み取る者がいれば、それは「請求書」となっていても、通常の請求ではなく、水増し請求であることを我々は知ることになる。そういう意味において、我々は他者の偽装を、それが偽装ではなく真意の、誠実な表明であると理解することによって、逆にある不正な書類の提出や、偽装の表明である発言を、それなりに理解する。つまり「嘘をついている」という真意を、その「固有の振りの仕方」において見抜く。それは「振りをする」ことが誠意に基づいてなされているか否かの感情判定的なバロメータを我々が心的理解として所有していると我々が考えているからだ。そしてそれは個人毎に多少の違いがあるが、概ねその基準は一致している、と我々は考えている。それは不誠実に「振りをする」時の人間の表情は、どこかぎこちないということを我々が誠実に知っているからだ。
 なぜぎこちないのか、それは不誠実な発言、書類の提出を悪としよう、そしてその悪とは、逆に「悪とはいけないことだ」と認識する能力、つまり良心によって自覚することが出来ると我々は知っているからだ。つまり良心のない人間は、それが悪であると知って敢えてする行為という認識は持たない。真の悪は悪を悪と認識しない、当然のことだと思う。あるいは疑いすらしない。しかし通常そういうタイプの人間とは稀少である。そこで我々は不誠実な発言や書類の提出を「嘘と知って嘘をつく行為」の典型として、そういうことをする人間の行為はどこかぎこちないと経験的に知っているので、その経験を下に分析的判断を下すわけである。それは人間もまた言語習得した後も言語習得以前的な本能をも全く失っているわけではないということを示して(表して)はいないだろうか?
 悪とは良心が作るものである。悪とは誠実であること、嘘をつくことは不誠実であることを熟知した者しか悪であると認識することが出来ない。そしてそれは表情に直結する。
 信原氏は「意識的経験は思考に変換可能であり、思考に変換されることによって、選択的な行動を可能にする。だが、思考は言語活動である。したがって、意識的な経験は言語化可能な経験である。意識には思考が不可欠であり、したがって言語が不可欠である。言語をもつ者だけが意識への現れ、すなわちクオリアをもちうる。(改行)意識、自由、思考、言語、合理性。これらは絡み合って、ひとつの固有の領域を形成しているのである。」と「意識の哲学」を結語している。しかし私は意識においても言語化不可能なものがあると思う。勿論そのように言語化不可能であると言葉にすることなら出来るが、それは詭弁というものであろう。つまり何故人を殺してはいけないのか、ということを我々は意識出来るが、原理的にその根拠を我々は言語化しようとするし、それを試すことなら出来るが、それを実際言語化するという真意である根拠化することは不可能なのではないだろうか?
 つまり良心というものが悪に対して発動される時、我々は確かに意識的に悪に立ち向かっているが、その悪が何故自分にとって悪であるのかということを言語化しようとはするが、その言語化は根拠化された思惟へとは終ぞ到達しない、ということの方が真実なのではないだろうか?また信原氏は暗に言語を持つのが人間だけであり、動物はそうではないのだから、クオリアがないと言いたいようなのであるが、実際動物にとっての言語とは端的に彼等の表情であるという観点に立てば、彼等にも人間の持つクオリアとは違うというだけで、クオリアがあると認めてもよいのではないだろうか?

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