Tuesday, November 10, 2009

〔表情の言語哲学〕2  第二章 言語は真意を伝えることが出来るか

 真理というものがこの世にあるかどうかは誰も知らない。しかしそれは少なくとも価値システム論的には必須の概念として論じられてきたし、それは哲学の歴史の重要な部分である。プラトンやアリストテレスからデカルトやカント、それ以降の哲学者の多くを翻弄してきた価値である。しかし少なくとも西欧哲学においては、真理とは理想への希求である以前に、まず神という絶対命題、最高存在者に対して付与されるようなニュアンスのものであった。スピノザは神即自然と考えたが、神に対する敬虔そのものにおいて人後に落ちないという自覚があったように少なくともテクストからはそう読み取れる。しかし彼は少なくともユダヤ教の教条的な倫理に疑問を持ったことだけは確かである。そのことについては脳神経学者のアントニオ・ダマシオの著作「感じる脳情動と感情の脳科学よみがえるスピノザ」が詳しいし、私の感情の捉え方は基本的にダマシオの考えに従って本書は書いている。
 西欧哲学では神の存在に対する懐疑が徐々に19世紀後半には顕著になっていったというのが実情であるし、寧ろ神からの独立というテーゼ自体は積極的有神論者であるカントに既に見られるスタンスである。(そのことは拙書「責任論」を参照されたし。ブログ「死者/記憶/責任」に掲載更新中)しかし奇妙なことには無神論にはどこか宗教的ニュアンスというものが付き物である。それは先験的な完全無欠という観念を払拭出来ないことには神性というものが付き纏うということである。例えば生物種それ自体にはある理想的な形状、それは自然に適応するために性選択の見地から等色々考えられるが、実はそういう値というものがあるが、殆どの生物個体はその理想値からは少しずつ劣っている。ある部分では他の個体より抜きん出ていても尚、別の部分では少し劣っているという風にである。そのことは人類史上の大天才にも当て嵌まる事実である。アインシュタインやピカソはアスペルガー症候群だったと伝えられる。アスペルガー症候群とは「おはよう。」とかのような型どおりの挨拶に対して「何で今別に時間のことを話題にはしていないのに。」とつい疑問を持ったりするような症状であると言う。
 だがそれにもかかわらず我々は理想値というものを当然の判断基準であるかのように振舞う。あらゆる社会ゲームにおける経済的な数値目標は全部そうである。それは唯一絶対の公理性に対する無条件の信頼、無頓着な信仰でさえあると言ってよい。
 無意識という言葉はどこか現代の困難な哲学的議題やら、脳科学的な命題とはそぐわないというニュアンスを私は常々抱いてきた。そういう直感こそが、サルトルやジャック・モノーをして無意識などというものはあり得ないのだ、という考えを抱かせてきたと思う。無意識と呼ばずに自動的に行動すると考えるともっとすっきりする。それは選択以前の選択、つまり何かをする時幾つかの想定し得る選択肢から縒り選ぶことではないのだ。もっと直接にそこに到達するニュアンスである。またそれは刺戟に対する反応とも異なる。それは外部的な能動的事実によるものであるが、無意識とは寝ている時にも起るものであるし、外部的に何ら刺激に類することがないように感じられる瞬間にも刻々脳内で作用していることであるからだ。それを自動的と私が呼びたいのは端的に、一々我々が意図しているわけではないからである。
 さて論理的思考とは言語的思考の獲得の後に円滑になるということは考えられるにしても尚、では言語的思考そのものが論理的思考の全ての根源であるかと言うと疑問が残るだろう。私は前章において視覚的な情報処理が言語的思考を促す可能性について触れたが、それはこういうことである。近くにあるものと遠いものとの段階的な区別が自分と他者の距離を認識することに応用されるし、それは一人称においては主語と目的語という峻別を我々に教える。例えば論理的思考はそれ自体で言語的思考そのものと密接であれ、独立しているようであれ、どこかで視覚的情報によって形成される映像記憶とも無関係ではないのかも知れない。例えば論理的思考というものは筋道をつけてプロセスの在り方を想像することであり、それは車と車がすれ違う様子とか、水がスプリンクラーから周囲に撒き散らされる様子とかによって、あるいは人同士が何か持っているものを相互に交換する様子を糧に対立とか、対抗とか、放射とか、雲散霧消とか、交換とか、置換とか、要するに抽象的観念というものは具体的な映像記憶や経験的映像的知識によってより理解しやすいということがあることを考えると、どこかでは具体的映像とも関わりがあると考えることもまた理に適っている。すると論理は具体を起源とすると考えてもよいことになる。
 西欧哲学が論理的な弁証法によって営まれてきた歴史をフランスの哲学者のジャック・デリダは論理的起源としてパロールを考えた。パロールは音声の発声に基本があり、それを基本とする書記述というルートを西欧哲学は踏襲してきたことに対して言語自体の語られる事実に対して語る行為のモティヴェーションとの相関性に彼は着目したからこそ、エクリチュールという事態の、文字を読む行為と書く行為の時間的差に内在する、記述者の意図とか、暗黙の読解者に対する要求という意図を、再び覚醒させることとなった。
 発話行為が基本である限り、論理は説明と不可分である。しかし私が捉えたような具体的な知覚映像によって齎される段階論的な、要するにプロセス認識が、論理の起源だとすると、我々は説明による説諭としての論理的説得力とは、実はア・ポステリオリに獲得した弁論術に起因することをデリダよろしく理解出来る。それは具体的理解の後の社会ゲームの一つの営みの必然的展開でしかない。
 デリダの示す考えに見られるように現代哲学以降の認識では明らかに文脈論的な理解だけではない具体的な映像記憶と学習といった言わばクオリアとか知覚的なトークンとか、私が考える質的な情緒とも無縁ではないニュアンスといったものと意味内容とは不可分であり、真理値そのものが真理を語ろうとする話者の語調とか、ニュアンス説得力と無縁ではないような意味で、それらは一層重要性を増す。
 私は日本人である。しかしアメリカ映画を見て、アメリカ人のライフスタイルを知り、そこで彼等なりの生活感情を理解することが出来る。一東洋人であり、東南アジアの一国民である私は西欧形而上学を理解しようと試みることは十分根拠のある行為であり、それと同じことをアラブ人がしても何ら差し障りない。それはアメリカ人やヨーロッパ人が禅東洋思想に関心を抱いたり信条とすることにおいても同様のことが言える。
 そういう意味では世界に既に国境などないと言ってもよい。あるのは個人の内的な民族的感情(私はそれを民族的ルサンチマンと呼ぶ。)であり、それは対他的にも、対外国人に対する私の不可避的な発信メッセージでもある。それは「あなたを理解したいけれど、理解出来る部分もあるが理解出来ない部分もある。」という表明でもあるのだ。
 アメリカの哲学者で一際目立つ存在であるヒューバート・ドレイファスは現代の人工知能研究の方向性に対して不完全であるとして苦言を呈している。彼の思想によると人工知能論者のような意味で文脈に依存しないで内的な象徴を内的な規則に従って操作する認知を提唱するその考え方は語義矛盾であるとする。「人間行動が客観的に予測可能なものと考えるなら、文脈に依存しない科学的法則があることになるが、実際のところドレイファスによれば、文脈に無関係に成立する心理学とは語義矛盾なのである。こういった立場は、現象学や解釈学の伝統(とりわけハイデッガーの著作)に由来している。人工知能研究が基礎を置いている認知主義的な考え方とは逆に、ハイデッガーは、人間存在は自らが置かれた文脈によって強く拘束されていると考えている。」(wikipedia2007年5月20日付けより)
 ドレイファスの考えに従えば、我々は前章でも触れたが皆自己流の具体的理解方法を感得しており、それを通して概念的理解とか法則的な理解をしていることになる。それらの考えを通して社会ゲームにその都度参加しているのだが、本質的には個々によってなされる人間の理解の仕方というものはそうおいそれとは他者が理解し得るものではないということになる。しかしだからこそ個的な理解と個的な意味の世界から社会ゲームにおいて流用された意味の世界に転換した際の共通したルールには国境など皆無であるということになる。だから空や無は西欧哲学やそれを志向する世界の研究者や学究の徒にとっても普遍的概念であり、今や東洋哲学の専売特許ではないし、それは我々が西欧哲学を我々の財産としているのと同じことである。それらの普遍概念は基準を設ける我々の構えを構成するものである。従ってそれらは前基準的なものであり、場構成上の必須設定基準であると言える。個人とはそういった場において可能となる。普遍的価値体系というものがあるとすれば、それは場構成の状況的顕現が必要となる。その具体的な顕現によってア・ポステリオリに見出されるものこそ普遍的価値体系である。だから普遍的価値体系というものはある意味ではガザニガが言う責任の作用そのものの脳内局在性の発見の不可能性と同様、あるいは真理同様の人間にとっての目標なのだ。
 そのガザニガは自著「脳の中の倫理脳倫理学序説」において左脳に人間が異なった文脈とか何の脈絡もない二つの事項を関連あるもの同士として認識する、即ち辻褄合わせの能力を有していると脳科学的見地から報告している。これは人間の論理的整合性という事態の全てに言えることである。しかし人間は非論理的心的作用に常に取り巻かれている。例えば端的に言って感情というものは全てこれに該当する。例えば愛情とは憎悪と隣り合わせである。尊敬は軽蔑と隣り合わせである。愛情は憎しみに転化する可能性として存在する。尊敬は軽蔑に転落する可能性として存在し、これらは全て一方の事態にのみ貢献するような心的なエネルギーではない。人間はある意味では自己本位であるからこそ、逆に社会性とか価値システム論的な脳の作用をもって理性を生じさせるのだ。その理性の原初的な作用が左脳による辻褄合わせであるかも知れない。
 例えば言語統語構造そのものにもまたその辻褄合わせがある。それは言語中枢が左脳の側頭葉に存在することからも頷ける事態であろう。しかしその辻褄合わせをすること自体に対して他者が「あいつの言うことはどこかピントが外れている。」という感想を持たせるのは右脳であろう。つまりこの二つは相補的に人間社会の全ての言語活動にも、あるいは言語活動休止時間にも採用されている。しかし人間の時間感覚は一人で瞑想している時にも如何なく発揮されるが、言語行為自体にも内在している。例えば言語学では色々なアプローチ、例えば音韻論とか語用論とか形態論とか意味論とかによって角度を変えて考察されてきたが、それは専ら「語られたこと」を通してだった。しかし言語行為とは語られたことを「語ること」として受け止める話者の意志とか、「語りかけてくること」という風に解釈する聴者の意志とかを無視しては語れない。その意味では言語学にはやはり哲学が必要なのである。あるいは脳科学も必要であると言える。
 言語行為それ自体がメッセージ的なものであるとしたら、必然的に言語行為それ自体に内在する品詞転換とか文節化秩序とかにおいて心的作用の感情様相理論が持ち出されてきて然るべきであろう。だから左脳の論理的整合性操作能力そのものも、また深く感情レヴェルに関わっていると考えることは自然である。言語は他者にメッセージを円滑に伝えることを目的としていると同時に、自己内の思考を整理したりして、そのことを通して時間という秩序を生きることを納得する、それは左脳的な理屈で納得するのではなく、もっと深く生理的に呼吸しやすくするような形で納得することを目的としている。だから言語活動そのものを音韻論とか語用論とか、要するに言語秩序という語られた結果だけを見て判断してもそこには自ずと限界があるのだ。例えば辻褄合わせという心的事実は、そうしなければ生理的に悪い作用を心的に、あるいは内的に、脳判断的に感じるからである。してみれば辻褄合わせをしないままにしていると脳病理状態の人間でさえ居ても立ってもいられなくなるということなのだから、それは時間秩序を生きる人間の「納得」という事実と向き合わなくてはならないということになる。
 例えば人間が何かを性急に伝えなくてはならない時、慌てた口調になり、きちんと流暢には語れずに所々つっかえたり滑舌を滞らせたりすることそのものもまた時間秩序における使命、責任感に支配されていることの証拠である。また抑えつけた感情を内部に保持しながら会話していても自ずと抑えつけられた感情がどこかで表出するような口ぶりになることを完璧には抑制出来ないという事実こそ無意識と精神分析で呼んでいるものが、実は感情の抑制であるか、あるいは忘れたいと願っているのに忘れられないトラウマであるか、あるいはとるにたらない雑多な知覚記憶を多く抱え込んで現在を生きている(つまり過去の多くの知覚や感情の痕跡に支配されている)ということの精神医学からの解釈であることを物語っている。私は無意識の多くは記憶の痕跡の仕業であると考えている。そして往々にして覚えたいということに関しては歪曲されやすく、覚えたくはないことに関してはありありと記憶されるということもあるということだ。
 だから結果論的にはある人間の発言全体を支配するニュアンスにはその人間の感情を読み取ることのたやすい全体的な表情を発見することが出来る何らかのメッセージがあり、個々の文章とか発言のメッセージとかは実はそれほど大した意味があるわけでもないのだ。
 例えば眉間に皺を寄せて語っているのか、ぽかんとして表情で放心したように一言一言力なくただ単に呟いているのか、それとも慎重な面持ちで口を窄めてぼそぼそと語っているのかというような違いそのものが全体的メッセージに意味論的にも語用論的にも形態論的でも貢献することは言うまでもない。その発言が公言されて然るべき性質のものであるのか、秘密にしておかなくてはならないものであるのかというような違いそのものさえもがメッセージ全体を支配する。表情とはある意味ではその人間(発話主体の可能性を秘めた存在者としての)内的感情の表出であるが、それは感情自体が発話主体としての存在者の置かれた状況に対する反応であるということである。だから示された一個の表情とは即ちある状況に対する抵抗であり、従順であり、苦悩の告白であり、協調であり、賛同であり、違和感の表明であり、抵抗の偽装であり、従順の偽装であり、協調や賛同の偽装であり、違和感の表出の隠蔽である。あるいはそれはある強烈なる意識を伴って齎される行動への前哨戦であり起爆剤であり、理性の回復への欲求であり、理性のカモフラージュである。理性の回復への欲求には狼狽が前提されており、理性のカモフラージュには防衛本能が介在しており、その前提には他者からの威圧と軽視があるだろう。
 それらはフロイト的に言えば意識と無意識、あるいは超自我と前意識とエスということの、あるいは理性と野生の相関性そのものの招来である。招来されたそれらの表情は、招来する者を差し置いて他者の家を我が物として居つくのだ。それはレヴィナス的表現を借りれば、明らかに我々全ての人間が「顔の人質」になっていることの証拠である。
 例えば今ここで幾つかの発話例を挙げてみよう。

A 「かもね。」
B 「わけないか。」
C 「とんでもない。」

この三つはA=推量、B=絶対否定の確認、C=絶句といった様相で捉えられる。上記の三つは実はそれだけで発話主体の置かれた立場、つまり社会的な立場だが、より対他的な信頼性に依拠した発言として示されている。勿論これらが対他的な信頼性に依拠していないケースとしては、どれも「ある発言に対する諦念的な嘆息」、「ある発言に対する鸚鵡返し的な確認<その発言行為に対する諦念>」かに属するであろう。しかしいずれにせよ、この三つは明らかに対他的信頼性に依拠している場合には、会話の流れを全く異なった三つの方向に誘う。


↓ ↓ ↓    
A B C
↓↙ ←


      


 人間は言語活動において発話する時には、言語自体の力によってある発話がなされたことによってその後、それまでに語られてきた会話の流れを転換するのではなく、寧ろ会話の流れをそのまま続行させるのか、あるいは多少変更するのか、または全く異なった方向にシフトさせるのかというような、最後のタイプには恐らく会話続行拒否も含まれるのだが、要するにそういう会話全体のメッセージを構成する流れ(それは文脈ともまた違う。)を決定付けるためにこそある発話を選択するように脳が働くのだ。だからある会話がどんどんある方向へと淀みなく向うとしたら発話者同士の信頼性が円滑に作用し、成果ある会話であると言えるし、逆にさっきまで話していた会話内容に戻ったりしつつ、それでいてその反復自体が楽しいものではないのなら、無意味な時間の浪費ということになり、それは空しい時間の空費ということになる。そういう場合には相互に疲れているから、いかに親しい間柄でも、その時はそれ以上会話を続行しない方がよい場合もあるだろう。
 要するに会話全体のメッセージとは会話の流れに内在する全体的な志向性、要するに方向付けが可能な意図であり、それは発話の語調に漲る発話者の情熱と、関心の度合いが示された会話の表情という一種のニュアンスである。例えば何らかの会議とか討議とか、国会の予算委員会とかにおいて、社長とかCEOとか首相とかが、他の社員、役員、議員たちと会話している時、勿論その司会者の手腕も問われるのだが、予想外の内容へと進展していった場合、勿論それはポジティヴなケースとネガティヴなケースとがあるのだが、我々は通常事後的に「あああの時のあの人のああいう発言がきっかけだったですね。」と理解することが出来よう。事後的に振り返れば必ず一つの分岐点が見出される筈なのだ。誰の眼にも明らかな分岐点というものもあるが、案外よく注意して振り返らなくては、私が示した翻訳の方向性のずれと同様なかなかそうだとは分からない分岐点というものもあるのだ。これは医師が手術をしている時に予め調べたスキャン等で理解出来た部分と、オペで開いた時に初めて発覚する部分とのずれにも言えるだろう。オペ担当の医師は身体にメスを入れて初めて了解出来る病因というものが微細な部分ではあるだろう。それが空間的な分岐点である。それは例えばある機械が故障してそれを修理する技師によって発覚する故障の原因、あるコンピューターが作動不全を起こしてシステムエンジニアによって発覚するシステム不備においても言えることである。コンピューターの場合操作ミスということもあるからあながち空間的分岐点とも言い切れない部分があるが、会話などの場合には明らかな時間経過上での分岐点が確認出来る(テープ起こしなどをしているケースで)だろう。
 もし私たちの会話が只の事実報告だけであり、一切の感情的ニュアンスというものがないとしよう。するとその会話では只、事実報告の羅列となり、また只の報告陳述命令者と部下による忠実な報告の反復だけとなる。そこには人間同士の血の通った同意、総意、共感、協調、協力といったポジティヴな事態もなければ、逆に反発、批判、中傷、非難といったネガティヴな意思表示もない機械的な言葉の連続となる。我々は後者のネガティヴな空気でさえ、実は前者のポジティヴな空気に転化し得る可能性を秘めた事態と認識することが出来るのだ。つまり言語が真意を伝えることが、伝え合うことが出来るかどうかという価値判断とは、実はこのポジティヴであるかネガティヴであるかどうかという移ろいやすいある種の未来に対する不確定性に依拠しているのである。もし最初からかつての株主総会のような儀礼的な形式の踏襲であったのなら、それは予定調和的なものでしかないだろう。しかし少なくとも不確実な未来への不安が抱え込まれているのなら、どこかの国の元首に対して軍人やら側近が只命令に従って事実を報告し、只日常的な変わりなさを確認して拍手するような光景しか我々には目撃出来ないだろう。つまりここで簡単に定義しておくと意志伝達とか意思疎通においては真意伝達が可能であるかどうかということの基準とは、それが自己対他という二者による最も基本的なケースであろうと共同幻想的な多数の人間によるセッションであろうとも、未来に対する不確実性に慄く参加者全員の非予定調和な、息詰まるような緊張感、しかもそれは命令に対する服従の意志に感じられるそれではなく、どのような展開してゆくかどうか不透明でありながら、何らかの期待感の皆無ではないような場の雰囲気であるだろう。そのような場では恐らく参加者による内的な参加モティヴェーションが切り崩される危険性は小さいと見てよいだろう。その場の雰囲気というものがコミュニケーションの形骸化の危機を救う唯一の方策かも知れない。
 人類が言語獲得することとなった経緯ということは今更実際上確かめようがない。しかし幾つかの仮説を立てることは可能である。例えば言語哲学者の丸山圭三郎は「言葉と無意識」において、彼は人間だけが身体的なホメオスタシスに依拠しないでも身体を維持出来る人工的な手段を持ったのであり、それを逆ホメオスタシスと呼んでいるのだが、例えば冷暖房の工夫(それは近代以降のものではない。着衣の習慣も、火を使用する習慣も既に古くから執り行われていたのだから)がそれである。外気温度の方を自分たちの体温に調節するというわけである。そして結論的な視座として次のように述べている。
「人間があごと歯が退化したために食物を煮炊きして食べ易くしたのでもなければ、足が萎えたために乗り物を開発したのでもない。むしろその逆であって、衣服をまとった原始人は体温の自動調節がきかなくなって寒さを覚えるようになり、歩くことを忘れた現代人の足から土踏まずが失われたのではなかったか。」(「言葉と無意識」講談社現代文庫版、172~173ページより)
 この箇所はしかし、丸山がある意味では彼が当時一世を風靡した記号論的解釈であるところの文化的フェティシズムを力説したいがためにこじつけたとしか思えない仮説であると思われる。つまりこういうことである。人間は実際自然人類学的見地から言えば、四足歩行から解放されて(森林の樹上生活になっていった人類の祖先の生活形態によって)、蹲る恰好で生活することから解放されたのと、頭を地面に近い距離に保ちながら跳躍する時に頭にかかる過大な負担から軽減されて、顎の構造を頑丈なものとして維持することに費やされるエネルギーを軽減することが出来、その分脳の大きさが増してゆくことを可能にする余地が生まれたことによって、口そのものも脳を保護したりすることに費やされる必要もなくなり、その結果意志伝達の細かいニュアンスを表現する工夫に智慧を使う余地も生まれた。そして顎の頑丈さが弱体化したことと脳が巨大化した結果として今度はその脳を使って火で食物を炙ることを発見したというわけである。そのことと歩くことを忘れた現代人が土踏まずが退化したこととを結びつけることは論理の飛躍である。現代の諸問題と人類の祖先の問題は切り離して考えるべきである。また着衣の習慣そのものは体温調節が利かなくなった結果であるか、それとも彼の主張するように衣服を発明したために自動調節が利かなくなったかという問題は、そのどちらでもないというところが真実だったのではないだろうか?つまり人間は確かにドーキンス的に言えば延長された表現型としてミームを保持することとなったのだから、その意味では丸山の主張するような記号論的解釈も成り立つし、それはある一面は言い当てている。しかし彼等は総じて文化的フェティシズムの人間本能の弱化という局面を強調し過ぎたきらいがあるのだ。恐らく事実は彼等の主張と、従来通りの主張の中間辺りではなかったかというのが順当な判断というものであろう。しかし大切なこととは言語獲得はそういった一切の過程においてなされていったであろうという仮説がどれほど信憑性があるか、である。
 そのことを考える上で意思疎通とか意志伝達ということは「あるもの」として、あるいは「与えられた機会」としてそこに存在するような手段ではなかっただろう、ということである。つまり意思疎通とは対他的な攻撃欲求とその解除という必要性の認識の過程において、徐々に秩序立てられて行ったと考えることの方に説得力がある。本来攻撃的欲求というものは同種の動物同士が何らかの対他個体攻撃の必要性のない内は生じ得ようもないし、また攻撃欲求の沈静化という必要性も全くその攻撃欲求の進化過程において事後的に認識され得る必要性が生じるものである筈だ。すると我々の祖先は平安な状態を打破するような対他的攻撃欲求が脳の巨大化に伴って生じ、そのために種の絶滅自体を回避する必要性から言語によって対他的に相互の利益追求をしつつ、相互の攻撃を回避する智慧を生じさせるという事態に至ったと考えることの方が説得力がある。だが実際上見知らぬ他個体に対して自己という意識を生じさせつつあった我々の祖先は、当初は不安に陥れられたであろう。それはそうであろう。もし意志伝達する意志を告げようとしているその攻撃が沈静化された状態で他個体から攻撃を仕掛けられていたら命の保障はなかったろうからである。その意味では他者を一先ず信頼することの姿勢を示すことは不安を伴う。しかしもしあるコミュニケーション意図をこちらから仕掛けて、その返答として向こうがこちらと同一の意図を保持していることを確認出来たのなら、即座に相互に保有されていた不安は期待に転化し得る可能性が高い。要するに相互の意志伝達欲求という真意表明性の確認という事態こそが、対他的な真意表明の場の所有という事実を相互に確認し得ることとなったのである。つまり端的に言えば当初相互に抱いていた不安という事態が期待に転化し得る可能性とは対他的真意表明意図の相互確認、つまり相互意図の理解に比例して大きくなるということである。
 ある意味ではどのような信頼性に裏打ちされている意思疎通であっても、それは本質的に思惑と思惑のぶつかり合いである。それは自己利益の獲得を目論む相互に利害対立的な折衝以外の何物でもない。それだからこそそのような利己的な真意の表出を偽装することをなくなすことの誠実性がより求められるという事態は、実は相互に無駄な攻撃的行動を回避したいという欲求に根差すものである。

 ところで話は変わるが、私は以前から人間の女性が妊娠出産することに伴う激痛という事実にある疑問を投げかけてきた。例えば人間は出産することで味わう苦痛がもう少しでも軽減されていればもっと自然選択的見地からは我々は楽に生存出来たのではないか、と言うことである。人間は産道が腰骨に囲まれた狭いエリアから生まれてくる。そのことを回避させるには人工的な帝王切開しか方法はない。つまり自然選択において人間が獲得した形質としてお産に際して敢えて狭い通路を選んでいるということなのだ。このことは生物学者のジョージ・ウィリアムズも指摘している。しかしこのことをこう考えてみてはどうだろう。つまり人間は極端に脳を巨大化させた。その結果対他個体攻撃欲求というものもまた他の動物以上に進化させているのだ。そこで生存するということがいかに貴重な事実であるかということを認識させるためにもお産がそう快適に執り行われないように仕向ける自然選択が働いたという風に解釈するのである。尤もこの考え方は別に私の発案ではない。多くの生物学者の考えるところである。それは要するに、人間が他の動物以上に出産に苦痛を伴うような身体構造と、そのことに対して自覚的なデリケートな神経を捨て去ることなく生存しているとしたら、それは生まれてきた個体を大切に育て、外部の敵の攻撃から身を尽くして守るという観念を生じやすくするために自然が生存の貴重さを教訓として脳が判断しやすくするために態々狭い産道を通って赤ん坊が生まれてくるシステムを自然が採用したのだ、という考えである。つまり赤ん坊を育てる側が大切に赤ん坊を扱う(これだけ大変な思いをして生んだのだから)という観念を持つということは、敵対する側の個体に対しても、たとえ敵対する者に対しても、敵にとってそれほどまでに大切な存在を邪険にすることは結局自分の側の損失に繋がるだろうという思惑を敵対者にも付与することになるのである。敵は敵なりに紳士的な振る舞いが最低限求められるというわけだ。
 この自然選択に伴う個体間での必然的な心理に対する考え方は即座に人間の意思疎通上行う対話の際に発話者同士が持つある「構え」の問題に移行させることが可能である。通常我々は対話する時最初からあらゆる双方でのコンセンサスが成立しているのなら対話の必要性はあるまい。つまり対話の存在理由とは、親しい気心の知れた友とか、同一の目的に向って邁進中の同僚同士の休み時間の挨拶的会話以上の「敢えてする意味」を持っている。そしてその対話者同士は相手がどう出るか、自分の言う意見に賛同するかどうかは不透明である部分が必ず対話前にはあるものである。それが先述した不安というものの正体である。しかしその対話の存在理由が明確化されればされるほど我々は「構え」の性格を対他的な懐疑から徐々に、真意表出対象としての信頼性へと移行させてゆくのだ。その際にも完全に自己の側の意見と一致しているわけではないのだから必ずしも全面的な自己防衛の解除に踏み切るわけではないのだから、当然のことながら「構え」は保持したままである。しかし当初の「構え」はその真意表出可能性の認識獲得後では、明らかに友好的な態度へと転換している筈である。だから当然発話される際の相互の言辞にはレトリカルな工夫は減少しているだろう。つまりレトリカルな論理的工作というものは対他的攻撃欲求を全面的には解除しておらず、また自己防衛心を歴然とある「構え」として構成させている内には、依然採用されやすいという傾向がある。
 例えば論理学では「逆」ということの他に「対偶」という事態が想定される。しかし逆であることである内は理解度を全ての他者に対して発話(発語行為)では説得力を持つが、対偶となると、レトリカルな印象を発話においては他者に与えてしまう。だから数学とか論理学上の認識ではレトリックではないこれらの概念は、日常的発話行為においては、他者の能力とか他者の認識力に対する懐疑を抱く場合にのみ採用される、ある意味では他者に対する信頼性の著しく欠如した状態での使用ということになる。このことは私が既に示したAからCのニュアンス表現の心的作用とも関係があるので詳しく論じてみよう。
 我々は意思疎通では真意を告げることの可能性を特定の他者に対して向けられた眼差しから探る。しかしその際に語られることは、そういった発話者の内的なモティヴェーションそのものとは無縁に、意味作用的顕現としてそれ自体が真理を志向する。つまり真意を表明する可能性を見出しつつ、我々は自己の真意を意思疎通において知るわけだが、その内的な目論見と、語られたこととして顕現された世界としての我々の陳述内容は、それ自体自立した意味作用の顕現であり、それは真理を常に基準に説得力を持つものである。だから内的事情とか内的動機といったことと無縁に成立する語作用そのものは、ディタッチメントとしての真理値としてのみ発話者の目前にいる聴者、つまり発話する時の相手には受け取られることとなる。この内的な意思疎通の動機と外的に示された態度との間の齟齬は、発話行為を続行させ続ける時に、幾分自己の側にも他者の側にも、ある種の諦念を与える。真意を伝えることが出来るかどうかという言語行為の問題は、だから発話者の内的理解とか、内的事情とは相互に完全理解とは不可能である、というもう一つの真理を見出すためにのみ言語活動があるのだ、という理解に至るのだ。だから表情というものは、その齟齬に対して出来るだけ距離を心理的にだけでも縮める作用として機能するが、それは必ずしも話者の真意であるとは限らない。そう意図して表情を彼が作っているわけではないからだ。だからこそ言語活動において発話行為、発語行為というものは相互理解という共同幻想によって成立していることが了解されよう。それは話者同士のアンタッチャブルな相互の自己領域の干渉を控えることの宣言として会話、対話が機能していることの証拠である。完全理解ということの幻想性を我々は理解し、「それでよいのだ。」という認識を相互に確認することそのものがコミュニケーションである。
 もし我々が完璧なる完全相互理解を求めるのなら、我々は言語行為においてA、B、Cで示したような会話の分岐点などない方がよほどましである。会話とは完全理解が他者相互に獲得されているのなら成立しないし、もしそういう場合会話ではAもBもCもその弁別された分岐という事態自体も成立しない。そもそも会話をする必要を消去するためにのみ完全相互理解という考え方が成立しているからである。勿論完全理解とは一つの幻想である。だからと言って我々は全く何事も理解し合えないのだ、というニヒリズムに陥る必要もない。常にどのような会話、対話においてさえ部分的な相互理解というものは成立しているのだから。そもそも会話とか対話とかは相互の関心重複領域が存在しなければ成立し得ようもない。それはコミュニケーションを成立させる場である。
 言語が真意を伝えることが出来るかと我々が問うのは、ある意味では西欧人にも我々が理解するような無とか空が理解出来るのだろうか、と我々が考えることと同じことである。もしそれらが全人類普遍に共有し合える理解を得られるものであるなら、そこに我々はある光を見出すことになる。そういうものとして我々が日常で行う意思疎通が考えられるなら、言語活動としての言語行為は果たして伝達したい内容をあますところなく伝達される内容として自己から他者に、自己の意図と要求に沿った形で伝達されるのかどうかということへの問いなのだろうか?対話とは幾分齟齬を埋めようとする格闘のように思えることもある。例えばブーバーとロジャースの対話にはそういう要素を我々は読み取れる。しかし齟齬とは対話することによって見出されるものでもあるのだ。つまり自分では対話する他者が「そういうことは理解して貰えないに違いない」としていたものが意外と容易に理解され、逆に「そういうことならきっと容易に理解して貰えるに違いない」としていたものとは予想外に容易に理解を得られないもののことが多い、というのが対話での実情である。だからと言って我々は自己の意図や要求が伝えられたからと言って、対話が成功するとは限らないのも知っている。あるいは真意が伝えられる必要性だけが前提されているのだから、寧ろ内容の伝達をなすということである意味では目的だけは達せられたと考えるべきなのか?だがそれだけでは十分条件を満たしはしないだろう。我々はあくまで内容の伝達が相互に意味ある行為として認識されることを望んでいるからだ。
 通常ビジネスシーンでは真意を伝え合うことは至上命題ではない。寧ろビジネス対話では真意よりも目的の方が先行しており、それを遂行することの方に比重がかけられている。だから目的の前では真意は寧ろ隠蔽されてさえいる。真意とは目的の前では二の次である。真意をカモフラージュして臨むというわけでもないし、それは恐らく通り一遍の真意が誰にでもあるのだから、そのことに対する表明は割愛しようという相互の了解に基づく。要するに「問う」ということに纏わる面倒を回避するのがビジネスの礼儀である。相互の目的と見なされる事態への展開そのものが相互の利益であるべきであるという了解がビジネスの鉄則である。だからこそビジネスのルティンワークというものは、その仕方の踏襲という事実がビジネスマン相互の真意であると言っても差し支えない。だから通常ビジネスでは無意識はご法度である。ビジネスでの誠実とは無意識を排除することである。確かにそれでも尚我々はビジネス総体からは無意識をも読み取ることも可能だが、それは結果論でしか採用されない見方である。ビジネス上での誠実とは相互に認め合えるようなルティンワークである。そのルティンワークの自発的遂行と、その相互の認可こそがビジネスの真意である。だが同時に真意をビジネスの目的に合致させたことだけで全てのビジネスが巧くゆくものなのだろうか?建前だけで全てのビジネスにかかわる人々は了解し合えるのだろうか?その意味では総体俯瞰的に無意識レヴェルからビジネス自体を考え直してみるべきなのではないだろうか?
 個人的真意という奴はビジネス上での責任倫理においては隠蔽されるべきものであるが、商慣行だけによって我々はビジネスをしているわけでもあるまい。実はこの部分、陳腐な言い方を許して頂けるのなら、生き甲斐が自己内で確立していないビジネスではたとえビジネス上で目的を達成出来ても、我々はそれを成功と呼べるのだろうか、というディレンマこそ人間がビジネスに対して抱く当のものなのだ。それは恐らくビジネスシーンだけではなく、ファミリーシーンにおいても抱くものなのではないだろうか?子供がいて、健康に成長し、相互に理解し合える家庭という奴は理想像として言われるが、それだけではないだろうと我々は考える。価値という奴は一律に規定し得るような単純な真理ではない。
 一体我々が抱く真意とはどういうものなのだろうか、という問いなしに真意とは見出せるものでもない。真意は目的とも、理想値として与えられたものとも違う。何かを真意として何らかの行為をなすとしよう。しかしその行為は恐らく別の違った真意を極力排除して臨むということではないだろうか?我々は精神分析という行為もそれなりに知っている。我々はフロイトが言う無意識も、ベルグソンが言う意識も共に彼等の真意であり、同時に論理構築のための形式的基準であることを知っている。彼等がそういった論理で臨んだということは、それ自体で真意に論理を一致させていたということと、論理構築のために真意を導き出したということである。
 例えば我々は身内だからこそ真意を語り得るという事態もあるし、同時に赤の他人だからこそ相手に何もかも語り得るという事態もあることを知っている。我々は自己の真意とかある瞬間における本意が一つではないことを知っている。たとえどんなに信頼の置ける他者であっても、尚その他者に全てを告白することは出来ない、と感じるし、またそうすべきでもないだろう。だからこそ息子や、娘になら語れることもあるし、通りすがりの他人になら容易に語れることもあるのである。だから我々は愛する家族に囲まれながら自己真意に隙間風を感じる人間がいても別段不思議にも思わないし、また生涯「天涯孤独」である人間だけを不幸であるとも決め付けられないでいることを知っている。形ばかりは愛し合う像を周囲に提供する家族が、その偽装的な鬱憤を多数のそこそこ親しい友人に対しての交際で晴らしているという現実は、現代では珍しくはない。しかしその者が、では一人家族なしに生活することを選び得るのかと問えば、それも出来ないということの方が実際だろう。要するにビジネスであれ、家庭であれ、自己内の目的も、相互の目的も、自己内の真意も、相互の真意も一律なものではない、ということが真理なのかも知れない。だから逆に形式的慣行という事態にもまた一律には決め付けられないある幅のようなものが与えられて然るべきであろう。だが同時に真理を多様なものと規定するわけにも我々にはいかないところがあるのである。真偽という基準は内的にも外的にも真理という絶対基準に沿ったものであると通常我々は考える。しかし真偽の設定基準そのものは、つまり何を真となし、何を偽となすかという評定基準そのものは恣意的なものでしかない。そのことに対して自覚的な場合のみ我々は超越論的主観性に対して自覚的であると言えよう。
 例えば無意識ということを考えてみよう。しかし通常我々は何か意図的ではない事態を全てこの無意識に押し込めがちであるが、この意図的ならざる事態は際めて多様であることが了解される。例えば殆ど考えずに行動する場合、我々は意図が一々外部に意識的に持ち出されなくても済むような「分かりきったこと」として処理しているのだから、これは日常的な大まかな真意が重層化され、それを意図するような意識レヴェルにまで持ち込む必要性がない状態に、それらを追いやっているわけであるから、当然のことながらそれらは自動的な行動と言ってよい。それに対して意図的でなければならないことというのは、非意図的であることに対してある種の潔さを感じられないという事態なのだから、それらは総じて反省的な決意である。反省という事態にはある意味では制度というものが圧し掛かっている。ある行為Aが自覚的であり、意図的であることの裏にはその行為ならざる別のもう一つの行為があり、それを価値規範的に思わしくないものとして排除しているという心的な作用がある。それをフロイト的に超自我と呼んでも構わないが、もっと単純に考えてもよい。つまり行為Aを正当化するのには、別の行為Bを疎ましいものと規定する判定基準があるということであり、それを意識的に忌避しているということである。それは無意識にそうしている場合もあるのかも知れないが、敢えてそれを論理的に説明するのも疎ましいという思いが先行しているだけであり、概して忌避すべき対象としての行為とは、明確に意識し得るものの方がずっと多いということである。別の行為を忌避することによって成立している行為Aは、だから一面ではそのように意識的に、自覚的に自己を戒めなければ陥りやすい行為Bに隣接しているという意味では極めて危うい均衡の上に成立しているものであり、寧ろ行為Bの方にこそ接近しやすさが潜んでおり、それは得てして口には出さないように皆が心掛けているのにもかかわらず魅力的な行為でもあるということである。つまり無意識という事態の実はかなり多くがこのように取り付かれやすい魅力的行為なのであり、その魅力的行為に対する無意識の内の拘泥を避けるためにこそ、敢えて意図的な行為が、つまり敢えて意識的に価値規範の範疇に取り込むべき行為というものが存在し得るのであり、非意図的であるがために陥りやすい魅力的な愚行を敢えて避けることが、賢明であるという判断に基づいているということなのである。
 精神分析で無意識をことほどさように採りあげる必要性とは、言い換えれば人間が陥りやすい魅力とは、敢えて意図的に避けるように心掛ける必要があるということが制度とか、安定に必要であるという自覚に常に我々が脅迫されているということをも物語っているのである。
 例えば無限という観念にもそういう一面がある。事実上人間社会というものには自ずと限界がある。それは我々が子孫を儲け、永遠の生の持続を望むのとは裏腹に人類もいつかは絶滅する。それにもかかわらず、例えば個体に死の永遠なる死後の世界があるかのように思惟すること自体に無限に対する思念には魅力があるということを意味する。カントは無限ということを考えた。クリプキがプラスに対してクワスという概念で、擬似理解ということを考えた時、理解していた今迄のシステムは、決して理解して我々が遂行していたのではなく、慣用的にそこに疑いを差し挟まないでいたということでしかないのだ、という主張があり、それは擬似理解にしか過ぎないということである。しかし擬似理解ということの主張はそれ自体で完全理解という事態を既に想定している。しかし完全理解ということ自体に潜む欺瞞性に我々が着目する時、どこかで我々は理解し得る領域の設定という不可避的事態に遭遇する。理解する必要などないではないか、とその時誰かが叫べば事態は更に一変するだろう。つまり理解領域設定という事態は、そう望む我々の欲求を表しているに過ぎない。それは欲求自体が無限に永続する、しかもその様相は瞬間毎に変わり得るし、様相変化に対応すべく設定される基準も無限に存在するかに思われる。実はそこに落とし穴があるのだ。状況即応型の変化対応という心的作用は、案外システマティックに慣用されている慣習性に依拠しがちである。しかしその瞬間毎の微細な変化対応に無限を感じる我々の思惟の在り方自体が問題とされねばならないのだ。
 その意味ではクリプキモデルとは、人間の説明欲求の無限性、と言うより無限なものとして理解したい欲求、それは不可避的思惟傾向なのだが、その事実に照明を当てているのだ。彼の考えた例は数学的言明なのだが、そしてそれは数学に限らず全ての日常的局面でも適用可能な普遍的事実でもあるのだが、それは無限設定という事態に最も顕著に現われた我々の思惟傾向である。
 例えば空間自体、あるいは宇宙自体は無限ではないかも知れない。ただ我々は思惟の上では無限という観念を容易に導き得るだけだ。だがそもそも無限という観念は空間にせよ、時間にせよいつまでも永続すると考える我々の思惟傾向を象徴しているだけのことである。
 例えば数学や哲学という学問自体が逆に無限という観念を我々の思惟傾向の必然的な因果律的思考連鎖の成れの果てとして設定させたものだけかも知れないのだ。そもそもそれは確認のしようもないし、仮にそんなものはないとしたところでそれを証明する術がないのだから、ある意味では不可知という自体を対象化した我々の便利な言い訳でしかないとも言えるのだ。論理的な無限後退とか、カントが唱えたような背進という概念は、総じて我々の思惟傾向を表しているのである。
 例えば我々が胎児だった頃記憶していたことは生まれてくる時の衝撃力によって大方は忘却されるだろう。そして赤ん坊の頃の些細な記憶もじきに忘れ去られてゆくし、つまり我々の記憶は今現在の意識を設定するために刻々過去の映像や経験を忘却してゆく必要性を前提している。一見無限に思われる記憶の層での無意識も、実際は現在の意識や、未来への決意や、行動への意志といった事態によって刻々自動的行動採用レヴェルでの、非意図性に組み入れられ、意図的な事態としてはどうでもよい忘却事実と化す。記憶というものは忘却されつつ、部分的に痕跡として現在に蘇らせる程度の、現在意識と意志の最優先主義的な決断のエキストラでしかないのだ。しかしエキストラの持つ多大なエネルギーを現在は尊重している。だからこそ想起とか回想とか追想といった事態が招聘されるのだ。
 我々がある時ひょんなことから以前にあった事実とか映像的クオリアを感知するのは、寧ろそれらの一切を記憶しているからではなく、痕跡として印象的であったことだけを記憶にとどめおいているからに他ならない。ある種の記憶のフラッシュバックとは、要するに我々の現在意識の中から過去に見て、聞いた何かを思い出すことで、未来に対する意志とか決意を促すように知らず知らずに我々がセレンディップな発見をしているということである。
 無意識という考え方とは精神分析によって病理メカニズムの解明に一役買っていた。しかし無意識が記憶の選択とか、過去体験の痕跡として感得されるものの、綜合的な解釈であるなら、重要なこととは知らず知らずに今現在でさえ、記憶として留めておくことと、そうではなく忘却してゆくことを常に選択しているという事実の方である。だから能力の限界という事実があるのだから、余計に我々は次のように我々自身の思惟の傾向を規定する。つまり無限とは有限性に対する諦念が産む観念である、ということである。無限という考え方とはある意味では零よりは重要である。零の発見はもしなされ得なかったとしても尚、無にとって変わられる可能性がある。しかし無とは無限をも含む観念である。無限とは有に対して有の持続という無を地とした図の観念である。だから我々が無限と何かに対して言う時、我々は無限の真理をどこかで前提にしている。それは有の無限連鎖という考え方である。しかも有の不可知的な無限連鎖という認識は、超越的思惟へと我々を誘う。そもそも神なる概念とは、無限性に対する具体的把握をなし得ない我々に代わって一瞬にて容易に遂行する完全無欠の能力のことである。その超越的能力に対する想定において、我々は自然に対して感謝の念を捧げ、憧れの感情を生み、時として何らかの崇拝心を育ててきたのである。
 人生に目的なるものがあるとすれば、我々はそれを見出そうとするだろう。そこには価値システム論的に唯一の真理があるかの如く考える。それは只の錯覚かも知れない。しかしそれは追い求める価値のある事柄であると我々に思わせる。唯一の真理がもしあるとするなら、それは人生全体の私という人間の究極的な真意であるだろう。すると私が感じる瞬間瞬間の思惟とか思念とかは、その究極的な真意に向けられてその時々に発せられる一つの目的のための方便であるということになる。それらは言ってみれば部分的な条件反射的反応である。すると人生において唯一の価値であり、唯一の自由であり、唯一の真理であるための真意とは要するに私の自己同一性としての不動の価値であるだろう。それは自我を支えるものだと言い換えてもよい。フロイト的に言えば自己保存欲動というものでもあるだろう。それは主体を形成する当のものなのだ。その時私は私の生を身体生理学的な意味でも精神生理学的な意味でも私の望むものと、私が望まれるものの一致を見出すだろう。 
 だからこそあらゆるコミュニケーションというものには、そのコミュニケーションを成立させる基盤なり、条件というものがあり、それらはその都度異なった成立状況、背景を持っている。そうした個々の差異性に彩られた個々のコミュニケーションをその都度支えるものは私が私であると信じているという事実である。私は私の事実なのだ。それを私の価値規範に基づいた自己真意であるとしよう。すると私は私を私として成立させる自然とか社会とか共同体とか、要するに自然の事物や他者たちによって私を私として容認するように私を取り巻く現実において私がその都度彼等と交信することを可能にする私の世界という事実であり、私の世界に対する事実である。私は私を認知するものの全てを私の事実として、私の世界の事実として、私の世界に対する事実として認識するのだ。私はその私の(世界的)事実なしには生きてゆくことが出来ない。それは自然の私の身体に対する働きかけであり、他者の私の生存に対する返答であり、私の行為はそれらに対する認識と方策の宣言であり、発話することはその一つの意思表示である。
 確かにコミュニケーションとはその都度の内容にあらゆる自我はカモフラージュされている。内容の伝達こそがコミュニケーションの存在理由となって立ちはだかっている。しかしその存在理由を育むものとは私の事実であり、私の世界の事実であり、私の世界に対する事実である。それは同時に自然の事実であり、自然の世界を構成する事実であり、自然の私に対する事実であり、それらは他者の事実であり、他者の世界の事実であり、他者の世界に対する事実でもある。私が私の真意を根底から覆すことが出来るのは私の自殺のみである。私の自殺は私の身体生理的事実の自己保存欲動に対する放棄以外の何物でもない。勿論私は私の考えとか私の信念を永続させるための最後の手段として自殺も可能性としては保持しておく自由がある。しかしそれは私が私の事実を放棄することによってしか為し得ないていのものである。私は私の事実によってのみ私の考えの永続を望むのだ。だからもし私に唯一の真意があるのなら、それは私の日常的な真意ではないだろう。真理は常に唯一ではない。にもかかわらず私が私の唯一の真理を求めるのなら、それは世界にとって絶対的なものではないだろう。私の事実が私の世界なら、寧ろ絶対的普遍的な世界という認識を捨てねばなるまい。しかし実際上は、私の事実としての世界以外の如何なる世界も、実は私と私にとっての他者と自然全体に対して私が抱く幻想でしかないのである。世界にとって絶対であるという事実などないのだ。世界は私を離れてはあり得ないのだから。
 私にとって唯一であることとは、私を離れて絶対なことではないが、私にとっても絶対ではないだろう。私にとって私の唯一の真意とはその場その時で変化するが、それら全てを通して私が実感する真意である。それは私にとっても相対的なものであるが、不明確なものでは決してない。それらはいたって常に明確である。私は私の多様な感情の、私の身体生理の様相なのだ。私はそれらを相対性であるとは言い切れないのだが、絶対ではない。しかし私の事実は私にとって確かなのだ。それは私が抱く幻想であってもだ。
 ウィトゲンシュタインは真理という言葉をやはり他の哲学者同様使用したが、レヴィナスが日常的な思惟の哲学者であったような意味で、やはり日常的思惟の探求者であった。ウィトゲンシュタインは神を規定することはなかったし、声高に神の存在を示そうともしなかったが、神をエポケーしようともしなかった。しかしレヴィナスのように神に対して敬虔ではなかったとも言えない。例えばレヴィナスは明らかに神を日常の自己の思惟に降りてくるものとして捉えている。レヴィナスは神を無限の別名として使用している。だから有限者であるところの人間を主役にすることで、神の無限性を異質なものとして捉えている。それらはある時は高揚するような意識を支えるものでありながら、ある時は意識から排除しなくてはならないものでもあるのだ。ウィトゲンシュタインは神を否定しもしなければ賛美もしなかったが、彼にとって自己の判断そのものが異質なものであり(異質であっても病理的にではないが)、自己の真意の唯一性に対して問いかける可能性の存在として常に胸中から去ることのない存在であり続けたように思う。
 しかし彼等の哲学の主張それ自体は神を積極的に肯定しようが、否定しないでおこうが、それを哲学として受け止める読者にとって内的に概念的にも、感情論的レヴェルででも存在する神と対比して考えることを強いる。それは必ずしも彼等が神を語ったり、否定することなく神の存在についての考察を保留したりすることによって彼等が目論んだ通りの出来事ではないだろう。寧ろ何ら予想もつかない彼等のテクストに対する反応である。しかしそれでよいのだ。その予想通りではないという事態こそがテクストを発表する意味がある。発話する意味があるのだ。
 
 言語活動の必要性というものはたとえ一軒の山小屋に一年の大半を過ごすような生活スタイルの人間においてさえ重要な思考回路の提供を齎している。自給自足生活者にとって自問自答という思考スタイルそのものは言語思考という脳内の活動に支えられている。あるいは誰からも援助を受けず生存そのものに対して危機を感じている瀕死の者が抱く内的な感情、例えば神に縋るような心的様相そのものさえ、言語思考というものと離れては為され得ないものだ。そもそも神という概念そのものは集団的思惟であれ、個人的思惟であれ言語から離れては存在し得ない。
 もし言語活動そのものが内的感情の他者に対する表出にあったとするなら、統語秩序、文法、音韻規則といった形式的基準といったものはある意味では感情的ニュアンスを和らげるために存在しているとさえ言える。言語学者のイェスペルセンは形態論を、形式から意味を探る試みとして、統語論を意味から形式を探る試みとして捉えている。しかしそのいずれの回路で言語行為を考察しようが重要なこととは次の一点である。それは彼が言うように発話者は内面から外面へと言語行為として内的意志伝達意欲を形式化するのに対し、聴者は外面的に示された言語行為事実を形式として受け止めながら、自己の内面において自己内の理解意志に基づいて自己感情として受け止めるのだ。この際話者は自己真意の表出をしようと試みながらも、相互理解へと言及事項が達するために、一回自己真意を抑制しているということだ。それは聴者が理解する言及事項が必ずしも全面的に話者の感情と一致するわけではないということを話者も、聴者も了解合っているということと関係がある。つまりここに相互理解のための真理値というものが必要となってくる。誰しも自分が語る事実とか事実に対する内的感情の報告を話者当人が感じた様相そのままに他者から理解されるとは思っていない。しかし同時に話者の説明意図から著しく乖離した状況として他者が思い違いをして納得することを話者となる者は誰しも望みはしない。そこでここまで理解して貰えれば全面的理解にまでは行かなくても満足するという値がある筈である。そしてそこに達していれば相互に納得し合い、そうでなければ説明し直すということである。ということは逆に意志伝達としての対話において話者同士は他者の真意を必ずしも全面的には理解し合いたいとは望んでいないということになる。真意の表出性そのものが新鮮なのはある意味では長期間に渡って一切人間と会話しない状況を持った者にとってであって、それはしかし相互にそういう状況の場合なら、人と合って話すという状況そのものが新鮮なのだから可能性として成立し得るも、逆にそういう状況で生活していた者が一方だけである場合には、それを聞く者にとっては甚だ迷惑な話であるということになる。
 人類は語彙数が増加するに連れ、真意の表出性から徐々に意味伝達性へと言語行為の存在理由を転化させてきたとも言えるのだ。だからこそどのような自己感情的真意表出を目的として随分長い期間人と合っていなかった者同士の対話でさえ、真意表出の生々しさを和らげるクッションとして統語秩序、文法、伝達内容の意味というものが存在しているのである。ある意味で意志伝達し合うだけが新鮮な者同士は抱擁し合ったり、発話意図を示し合うだけで楽しいと言えよう。そういう場合伝達意図の内容とか意味とかはあまり大した意味はない。しかしそれはそういう特殊な状況下での者同士の対話に限られるのだ。だから我々はイェスペルセンの主張するような意味で形態論から統語論へと考察優位性を転換しなくてはならない。つまり統語秩序が形態論的に捉えて、ただ単に真意表出の直接性を緩和する意味合いからだけではなく、伝達事項の意味内容の存在意義について深く考察することで、対話のモティヴェーションを考えてゆく必要性が生じてくるのである。
 人類が語彙数を増加させてきたことの第一の根拠とは、伝達事項の意味内容の充実という事態が最も順当である。それは社会的制度、法的秩序の形成に伴って必然的に語彙数を、意味内容の様相的多様性への自覚に伴って実践してきた、ということに他ならない。それは生活レヴェルでの意識の向上と共に対話すること自体の必然性と、存在理由の進化と深化を表している。意志伝達事実の確認がコミュニケーションの第一のモティヴェーションであるのは、個人的にも集団的にも極初期に限定されるだろう。どのような意思疎通においてもやがて伝達事項の伝達モティヴェーション、つまりどのような伝達内容を、どのような他者に対してなすのかという選択基準が重要となってくるのだ。
 だから言い換えれば、我々が意思疎通上で相互の真意を模索したりするのは、ある意味ではコミュニケーションが集団論的にも、個人的にも、あるいは人類史的にも、極初期の意志伝達事実確認の喜びの表明という初期状態をとうの昔に脱しているという事実に対する郷愁そのものが、伝達意味内容の確認という常套性に対する意義申し込みをしているに過ぎないということになる。その初期状態に対する見直しということの重要性は本章の最後に譲り、まず伝達事項の意味内容の獲得に関して考察することとしよう。
 纏めておくと、コミュニケーションの進化過程においては、相互感情表出の確認と、対話成立の確認から、徐々に伝達事項の意味内容的機能の認識、その意味内容伝達の事実に対する目的論的実践という事態へと重要性が移行してゆくということである。

 ここで表情を伴った言語活動そのものの具体的な例を挙げて考えてみよう。
 極基本的感覚、気持ちいいとか、気分が爽快だとか、逆に気持ち悪いとか気分が優れないとか、頭痛がして気分が悪いとか、腰が痛いとか、そういう場合我々は表情をその状態に即した形で表情筋の変化を伴いつつ自動的に外面的に示す。それはそのような表情を示すことを意図的にしているわけではなく、条件反射的にそうしている。だから我々がそのような表情を一人でいる時にも浮かべているとしたら、その表情が示すところの精神的状態には嘘はない。例えばそのようなことはビルの個室にいる人間の表情を望遠鏡で覗いたりした時に確かめることは出来るが、通常そのような状況で他人の表情を垣間見ることは出来ない。だが電車の椅子に座っている乗客の表情を何気なく見て、その人間が精神的に格別苦境にはいないだろう、あの人は普通の状態であるくらいのことは我々にも理解出来るだろう。
 しかし感情表出というものは敵対する者に接する時とか、個人的感情を表出することを通常は差し控えるべき場合には隠蔽されることが多いだろう。例えば重要な会議とか、プレゼンとか、ホテルの従業員が職務中に客に応対する時などは明らかに個人的感情は抑制されている。要するに職務上の事項の優先(これをしなくてはならないとかこれをしてはならないという責務に関心が集中しているからである。)が個人生活上のあらゆる感情表出を抑制しているわけだ。しかしこのような職務中の責務的表情ではなくても、身内以外の人、あるいはそれほど親しくはない人と話している時には我々は少なからず気心の知れた友人とか家族と一緒にいる時以外なら多少の偽装表情を取り繕うものである。
 嬉しいとか楽しいとか、不愉快だとか、腹が立つといった所謂精神的な感情表出というものは、実は身体の健康状態以外では、殆どが対人的な意思疎通の際に立ち現われるものなのだ。だからどのような親しくはない他人に接している時にも、その他者があまりにも傍若無人な態度を自己に採り続けるのなら、必要最低限の攻撃的欲求に対する抑制の解除を権利要求として個人的な感情表出を少しだけ示すことは相互に認め合うことが社会でのマナーとなっていることは認めなくてはならない。そしてそういった他者に対してその態度の採り方において認められないことに対する拒絶とは親近度に応じて、あるいはその他者への信頼度に応じて直裁なものになる傾向があるというのもまた極自然な成り行きであろう。
 だから例えば大切なプレゼンの際には、クライエントに対して説明者たちは自己の身体的な健康状態の悪化(例えば風邪をひいて熱があるくらいなら)さえ隠蔽しようとするだろうし、まして個人的な苦悩といったものを直接表出することは殆ど差し控えることが通常である。要するに気分爽快である振りをするということである。あるいは精神的に安定した様を偽装する(どんなに張り詰めていたとしても尚)ということである。
 自己内の身体健康上の状態と精神的安定度と関係のある個人的感情の表出を真意吐露であるとすれば、我々は明らかに真意表明という行為を、表明する他者との関係に応じて、つまりその近親度、信頼度に応じて使い分けているし、それもまた自動的な行為選択である。そしてその際の感情表出は身体的健康状態であれ(尤も精神的な苦悩よりは他者に表出することがそれほど忌避すべきではない場合もあるが、逆に電車の中で咳き込んでいたら、隣に座ることを避けられたりするが、そのような純粋に公的な場ではなくても会議中には明らかに出席者には健康状態でさえ偽装し勝ちである。)精神的な安定度であれ関係なく対他者近縁度、近親度、信頼度に応じて弁別している。
 だから個人的にはあまり好ましく思われないクライエントでさえ、業務上大切な顧客であるなら、一切の個人的感情を表出することを差し控えるであろう。つまり偽装的な笑みとか好意的態度さえ示す必要がある。責務偽装である。
 しかし今日的な哲学的問題として、そのようにビジネス上での責務偽装を執り行うことの連続が日常を支配している、と認識する限り重要となってくることとは、そういった建前主義的なビジネス偽装性の恒常的な事態で、真に人間間でのコミュニケーション上での真意の意志表示が可能であるか、ということである。その際に意思疎通でのモティヴェーションというものがどのように作用するのかということもまた問題である。また真のコミュニケーションのモティヴェーションとは有り得るのか、あるとしたらそれは一体何かということもまた重要な問いである。
 人間は他者の真意をあまりにも直裁に見せつけられると辟易とさせられるものだが、同時にあまりにも真意の片鱗さえ見せないと、その相手に対しては息が詰まる、そういうものである。人間社会での真理とは唯一のものではないし、またその人間の真意というものは一個の感情でもない。その時々で変化することと、ある程度長期に渡って持続することと、その人間の生来の性格的傾向性とかの一切が複雑に絡まり合って綜合したものを真意と呼ぶなら一瞬たりとも同一の真意に彩られている人間などいはしない。
 だが同時に人間には統一された真意というものが一個もないと断じることも決して出来ない。そのような意味では人間はやはり明確な真意を常に求めている。その一つは幸福でいたいということである。それは幸福の絶頂にいようが、不幸のどん底にいようが同じである。そのような意味では真意の様相は変化するが、恒常的に生きている際に持続している真意というものは唯一であるとも言い得る。
 
 ちょっと頭休めに話を逸らそう。私は生物学者たちが考える出産に伴う苦痛(陣痛とか、出産時の痛み)について少々先に触れた。このことを生物学的な意味で男子の生殖機能の面から考えてみよう。男子は出産を経験することがないから、出産とは女子に任せっきりなので、その意味では自己内での経験において疎いところがある。しかし出産を経験する男子には配偶者に対する配慮という意味では男子であるにもかかわらず、女子において、つまり人間のメスにおいて我が子に対する愛情を示す際に放出されるプロラクチンという脳内内分泌物質の作用が活発化すると言われている。このことは多くの書物にも示されているので繰り返さないが、もっと重要なこととは、そのような親和力とか共感能力を必要とするという事実は、裏を返せばそれだけ出産という事態に関して男子は配偶者である女子に全てを委ねているという事実を我々に示している。つまり男子は論理的には一回の女性の膣内での射精(勿論愛し合う男女の場合精子の卵子への着床という事実は、日常的に反復される愛の行為の連鎖における一種の恩寵なのだが)に帰着する。
 さて生物学者のジョージ・ウィリアムズは男子のペニスが排泄機能と繁殖機能の双方を重複して担っていることに着目している。(「生物はなぜ進化するのか」中<適応の医学>より)この事実は女子には当て嵌まらない。女子は機能的には尿道と生殖機能を果たす膣は別個である。しかし興味深いことに男子の精子を作る睾丸から射精するためのペニスの尿道へと膀胱の下部へと運ぶ腺は、身体上を上昇しつつ、膀胱よりも上部にある腎臓から膀胱へと尿を運ぶ尿管を跨いで再び下降して膀胱からペニスの付け根辺りへと合流しているのだ。この殆ど合理的に考えれば理に適ってはいない生殖生理的身体構造をどのように我々は解釈すべきなのだろうか?
 ウィリアムズはこの不合理な身体構造に関して、庭で大木を差し挟んでこちら側の木々に水をやる庭師が木の向こう側までホースを延ばして水をやっていたところ、一度バックしてから逆サイドの木々に水をやれば済むことなのに、敢えて大木を迂回してホースを更に延長して木々に水をやることの喩えで示しているのだが、実際自然選択というものは一旦こういう方向へと決めたら、そうおいそれとは方向転換することがままならないということをこの男子の生殖機能の図が示しているし、同時に結果論的には不合理な身体構造となっている男子の生殖機能が合理的に考えれば睾丸から直接膀胱の下部にカウパー氏腺を接続することを可能にすることを潔しとしない生理的な理由があったことを物語っている。そのことを恒常的に生殖可能な人間のような例外的なケースではなく、繁殖期の限定された動物を考えてみよう。彼等の睾丸は普段は体内に収納され、繁殖期にのみ下降してきて、繁殖活動に貢献する。人間の睾丸が皺皺の状態でしかも身体の外部に突起状に付着しているのは、精子を保つ温度を低めに設定していることに帰着するが、そのことを促進しているのが睾丸の皺であり、これはラジエーターの役割を担っている。
 さて人間の睾丸がもし今現在の位置と変わらず、しかもカウパー氏腺が尿道を跨ぐような今現在の状態ではなく、直接膀胱の下部に接続されていたら、人間には繁殖期が限定されていないのだから、当然のことながら今現在の状態よりも射精が容易になり、たちまち遺伝子を継承する子孫の増殖は今現在よりも容易になるだろう。しかしそのように容易になれば当然のことながら人口は著しく増加し、たちまち飽和状態になることは予想される。そのようなケースを想定してかしないでか、勿論意図的ではないのだろうが自然選択は、人間の性的欲求促進の機能をほどよく調節する意味合いで態々不合理な構造で精子放出機能を作成したとも考えられる。要するに他の多くの哺乳類の種のように睾丸が体内に不必要時には収納されるシステムではない人間は、性行為を一年中可能にしたが、睾丸の位置を変化させずに外部の突出させていることのトレードオフとして睾丸と尿道との接続地点に至る経路を複雑化した、よって性行為をある程度の覚悟を持ってするような、つまりそう容易には発情出来ないようなシステムになったとも考えられるのだ。
 さて自然選択というこの厄介であるが決して人間が他者に対して理由もなく贔屓したりすることのないシステムはその傾向がどのように不合理であれ、そうでなければたちまち不都合が生じるようなシステムを何らかの形で回避するためのシステムを長い時間をかけて考案して落ち着いていると考えて差し支えない。もしその理由が分からないとすれば只単に人間の側での洞察力が不足しているだけである。だから例えばパソコンのキーボードはかつてのタイプライターの配列のままなのだが、アルファベット順で配列されていないことの理由は、文字ごとに使用頻度が異なるということと、文字選択の際にアルファベット順に配列されていないからこそキーを打ち込みやすい何らかの理由があるからである。あるいは車社会である現代において何故自動車がこれほど人類による使用頻度が大きいかということも何らかの理由がある筈であろう。勿論地球環境の温暖化阻止と大気汚染の保全を考慮した新基軸のシステム(その一つがハイブリッド車であり、バイオエタノール車とかである。これらは今でも試行錯誤がなされており、どのような方法が最も効果的であるかは未だ解決されていない。例えばエタノール車に使う燃料の需要が増せば穀物の単価が上昇を避けられないという意見もある。)が常に考案されているが、自動車に成り代わる移動手段を見出すことはもし求められているとしても、そう容易ではないだろう。それはパソコンのキーボードの文字配列が変わらないままきていることとも関係がある。つまり最早変わらないものなのだ、と決め付けたほうがよいものとそうではないものの峻別がなかなか難しいのだ。我々の工夫によって自動車を使用しても地球環境の激変を食い止められるのなら、自動車による移動という現実はそう容易には変わり得ないだろうからだ。
 社会の様相が激変した時何らかの新しいグローバルな生活様式や手段の変化が齎されるだろう。しかし過去の歴史において二度と繰り返されない愚行に我々は立ち戻ることがないように全ての領域において必ずしも無限の変化の可能性が残されているわけではない。つまり便利で有益な手段は変わらなく存続してゆくからだ。例えば今度どのように新しい楽器が生まれようとも、ピアノはピアノであり続けるだろうし、ギターがなくなるというようなこともないだろう。そういう意味で無限の可能性を秘めた領域と、今後も変わることなくそのままであることの両方がある、ということである。このことを念頭に入れて今度は言語行為について少し考えてみよう。
 言語行為はそういった行為を相互にすることに意味がある、要するに意思疎通したいということが真意であることから出発する。その真意表明はその真意を円滑に伝達することの智慧を発達させたとも言える。例えば動詞と名詞(言語学者は実詞と呼ぶことがある。)を基本として文章は構成される。それは統語秩序としての体裁を整えるということだ。勿論形容詞とか副詞の方が遥かに話者の感情的ニュアンスは伝達される。しかしそれはある程度話者同士が信頼性を獲得して然る後の事態において想定される伝達性である。そこで名詞と動詞の繰り返し立ち現われる様相による文章構造の意味内容そのものが真意表明の意思表示となる。またある言辞そのものはその言辞が直接陳述する意味内容だけではなくそれ以前の話者の発話意図と発話するための内的なモティヴェーションを表す。それは目に見えないが実在する話者の聴者に対する感情的レヴェルの真意であり、それこそが話者間による意志伝達の真理である。そのことをウィトゲンシュタインは事実と呼んだ。意志伝達の真理が存在するということは、端的に言えば名詞も、動詞も、ただ闇雲にそのいずれかを反復すること、例えば名詞だけの連続であるとか、動詞だけの連続には聞く者が耐えられないという事実でもある。真理とは説得力があり、聞くに堪える真実味のことであるから、「日本の官僚の慣行の国民にとっての批判対象的部分の抵抗の図式」といった句は悪文構成要素である。また「彼はその時、藪から棒に突拍子もないことを言い出し、喚き、うろたえ、唾を吐き、大声で怒鳴り、うるさくしたので周囲の人間は呆気にとられた。」といった文章も悪文である。
 前者は「日本の国民にとって批判対象となっている官僚の慣行に対する抵抗の図式」のように訂正すべきであるし、後者は「彼が藪から棒に言い出したことで周囲の人間はその突拍子なさに呆気にとられたが、それは彼の唾を吐きながらの大声で怒鳴る姿が、彼等の耳にも不快であったからだ。」の方がまだ理解しやすいし、もっと端的に「彼が言った突拍子もない話は彼が唾を吐きながら大声で怒鳴るようだったので、周囲の人間を呆れさせた。」の方がずっとすっきりする。
 また例えば「猫がいる。」というようなどうと言うことのない一言には実は、その意味内容よりもそういう一言を吐く話者の聴者に対する配慮が伺える。猫がいるという事実を他者に報告することの必要性とは、猫がそういう状況に居合わせることが予想外であることを指し示す。例えば鼠の生態を観察したドキュメントに鼠が餌に噛り付いている動画の背景に猫がいるとしよう。するとその動画の鑑賞者たちは相互に「猫がいるね。」のように言い合うことは予想されよう。猫が鼠の天敵であることを承知で、技とそういう状況を選んで動画制作者たちが目論んだのか、それともただ単なる偶然であるかということがその動画の鑑賞者の意識に立ち上がるということが自然であるからだ。そのような状況下ではない限り「猫がいる。」と言うことは通常ない。例えば野良猫が激減した区域に生息する野良猫を発見した時、その発見者は同伴する者に、そのように告げるであろう。
 勿論「猫がいる。」の意味内容の真意は「<猫がいる>ことをあなたに伝えたい。」であるが、それはどのような状況でも同じである。「彼が死んだ。」もそうだし、情報伝達というものの存在理由は、その報告事実が話者相互に既知のことではないということが第一義である。しかしその言辞が単純事実であればあるほどそういった単純事実の報告の持つ伝達内容の希少性と価値は、予想外の事実であることであり、予想外ではない場合には、それは詠嘆的表現となる。そして詠嘆的表現とは話者相互が信頼性とか近縁的感情を相互に抱いていない限り不自然となる。「何でそんなこと急に私に告げるのか。」と電車の中の他人に話しかける者に、話しかけられた他人は怪訝な思いをするであろう。例えば電車が脱線しかかっているような状況でもない限り我々は通常敢えて他人に電車の中では話しかけはしないものである。飛行機に乗る乗客がいつまでたっても飛行場に着陸しないような状況では「飛行機の車輪が何かの不具合で出ていないのではないか」と乗客同士が予想するような具合の場合以外通常隣席にいる他人の乗客に話しかけることはないことの方が普通である。例えばビジネスクラスの者同士などは特に。彼等は通常飛行機の中でもパソコンをいじったりしているからだ。しかしもしそういう危機的状況があれば直ちに彼等は運命共同体の成員同士として何か語り合うという事態は想定し得る。そうでなければ伝達される意味内容の予想外なことこそが発話意図を支える。だから「空を飛ぶのって雄大でいいですね。」などという発話内容とは、詠嘆的表現であるから、何かあって隣席の者同士で発話し合うことが自然である状況を獲得した後でしか立ち現われ得ないものである。
 男子が配偶者の出産に立ち会う際にプロラクチンが放出されるレヴェルが上昇するという統計的事実とは、実は男子の脳内に存在する共感作用の発現である。本来心理学者で精神医学者でもあるサイモン・バロン・コーエンの指摘する(「共感する女脳、システム化する男脳」より)ように男子はシステム化能力に秀で、女子は共感能力に秀でているという。それは要するに生物学的統計的事実である。しかし同時に我々はそのようなア・プリオリな生物学的事実を常に意志レヴェルで社会的責務とか個人的愛情とかの所謂良心のレヴェルで人間学的な思念によって自分の性に本来不足しているものを補おうとしている。その意味では男子が配偶者の出産の際にプロラクチン数値を上昇させるという事実は、まさに自分の中に潜在する共感化作用を発現させているということである。だから他人に対して近親者と同様の振る舞いが出来るとしたら、それはある社会的意志によって促進されたプロラクチンの放出を発現させていると言えるだろう。
 この論文で触れた空間把握能力そのものも男子の方により優れた傾向が与えられている。しかし少なくとも地理音痴のような女性ですら、視覚的世界の何らかの序列という意識が言語統語秩序に対する理解をも促進していると考えることは間違いではないのではないか?一番遠くにあるものと、その次くらいにこちらから遠くにあるもの、そして比較的近くに見えるもの、極自分位置に近いものの間にある距離的な序列意識は、視覚知覚体験にも宿る。それを言語統語秩序において、最も伝えるべき本筋と、そうではない比較的瑣末な伝達事項との間のヒエラルキー的認識を与えることにおいて脳内で類似のカテゴリー認識を連想させるということは考えられる。
 それは睡眠中のレム睡眠時に見る夢の内容の選択にも同様のことが言えるかも知れない。我々は意識的自由の領域から夢の内容を選択しているわけではない。しかし少なくとも覚醒時に抱く関心事、社会的責務の全てが意識的に把握し、認識し、思考する内容を選択しているのなら、その選択から逃れる領域や、覚醒時の思考内容と類似した連想領域が夢において記憶内容の整理と、忘却内容の一括処理において突拍子もないように見える我々の夢の内容を実は用意周到に脳は選択しているのかも知れない。フロイトの言った顕在夢とはそのようものだったのかも知れない。
 例えば私たちが誰かと話しをしている時、その人と自分との近親度に応じた伝達内容が選択されるだろう。しかしそれは自分にとっての関心事とか、近親者との間での自己との関係は無縁なことではない。それら全ての日頃の意識下、無意識下に関わらず関連してくるものである。親友との会話の内容やその時の感情的な遣り取りは、それほど親しくはない人との会話にも影響を与えるだろう。それは家族内での感情的な遣り取りや心理的様相が他者と接する時の感情にも影響を与えるのと同じである。だからもし人間に真意なるものがあるとすれば、それはある場面での真意が別の場面での真意との関係において発現されていると考えた方がより理解しやすいだろう。
 カントは自由とか権利とかをある一定の努力によって獲得される価値規範と捉えた。それは与えられるものではない、ということだ。努力と心がけとその行為の持続により享受する資格を有する者のみが到達する自己真意の明快さというものがあるのかも知れない。
 フロイトが追求した夢内容というものは実は、その自己覚醒時の自己真意の明快さを知るよい手掛かりになるのかも知れないのだ。自己真意の姿とは刻々とその姿を変えて行っている。しかしその変化それ自体を把握することは意外と難しいことである。それを真に理解するために我々は学問をするわけである。

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