Monday, November 16, 2009

〔表情の言語哲学〕2   第四章 言語活動が表情を代理する

 私たちの意志伝達、意思疎通と言われるものの多くは既に実際に直に会って話しをするということの方が極限られている。つまりメールのみでの遣り取り、携帯電話でのみの遣り取り、或る論文を読む学者にとってその論文を書いた人の実際のプロフィールなどはどうでもいい場合も多いし、新聞を読む時も、ネットでニュースを読む時も、その伝達された内容だけを把握すればよく、実際一切他者と会って語り合うという行為を介在しないことの方が多い。またそういう殆ど他者と実際に会わずに過ごすことも可能である。
 そこでは人間の実際の顔で示される表情は一切確認出来ない。にもかかわらず、我々はメールの文面、論文の文体とか文章内容、あるいはツイッターによる呟き的投稿文にその言葉を吐いた人固有の個性とか、人格とか性格を読み取ることが可能である。いや寧ろ実際の人格では推し量れないその人間の思想とか性格とかの本質を文章が示してくれる。つまり言語活動は、言語活動が今のようではなかった人類初期のエポックによる表情のみによる意思疎通という事態ではあり得ない幾多の表情を、つまり実際に何か嬉しいことはあった時に笑みを示すとか、ある不愉快な出来事を目にしたり、耳にしたりした時に渋い表情をするということから判別される感情以外のもっと内奥に仕舞い込まれた真意のようなもの、あるいは潜在的な欲求を読み取ることも可能である。
 そういう意味において言語とは極めて偉大な発明である、と言ってよい。その言語メッセージ自体が感情を読み取ることが可能であることは、例えば「関係者以外立ち入り禁止」という立て札にも顕著に表されている。そこには特権者とそうではない人を明確に区別し、差別する意識が読み取れるし、権威主義的な他者に対する振舞いの発動と捉えることも可能である。あるいは権力の行使ということから考えることも出来る。
 つまり文章、語彙、言葉自体の利用の仕方自体に顕在化されているその言葉を利用する者の態度とか、スタンスを我々は一瞬で読み取ることが可能である。
 それは株の売買とか取引といった金融市場的遣り取りにおいても行為者たちの感情、性格、思想を読み取ることが可能である。あるいはコンビニで買い物をする時に、どういう商品を購入するのかとか、買い物をする時どういう順序で、どれくらい時間をかけて買い物をするのかという行為全般に渡る様相からも全てを読み取ることが可能である。それはもっとマクロ的に見れば、何時に起きて、どれくらいの時間を働くこと、社会に奉仕することに捧げ、休暇とか休日の取り方とか、頻度、あるいは休み時間の過ごし方全般からも読み取ることが出来る。それらは一切が行為選択であり、要するにその人間の言語的メッセージであると同時に、顔を一切見せなくても我々はそこに顔の見えない相手の表情を読み取ることが可能である。
 行為は言語を誘発させるし、誘発された言語とは行為者の見えない表情を想像させる。つまりある人間の顔も風体も一切情報が与えられていないにしても尚、我々はその人間の一日の行動を詳細に報告を受ければそこに自ずと浮かび上がるその人間の性格や思想が読み取れ、果てはその人間の他者と会った時の表情から、一人でいる時の表情も読み取ることが可能である。勿論それは文章自体が示すものとも少し違うかも知れない。しかし行動パターンとか習慣はそれ自体その人間の性格や思想とか癖を表す。
 だから文章はそういう意味では整理が極端に下手であるとか、行動自体は荒っぽい仕草であるとかいうこと自体も巧妙に偽装出来るとも言える。しかしそういう風に本来ある姿を必死に隠蔽しようとして書く文章と、そうではなく良くも悪くも本来ある性格とか思想をそのまま表明していこうとするスタンスでの文章では全くそこに立ち現れる文章の様相、あるいは全体から読んで受ける印象は異なるに違いない。
 宮本武蔵における「五輪の書」には端的に孤高の剣士に固有の孤独へと埋没していく意志の強靭さと空隙的な心の余裕を求める求道者固有の精神の高みへと達したいという欲望を読み取ることが可能である。それは武蔵の文章自体が極めて簡潔でありながら、どこか行間に何かしらの余韻、それは暗喩的なメッセージ性とも少し違う、要するに何かを達成した者にしか味わえない達観した生と死への透徹した眼差しを読み取ることが可能である。つまりそこに示されたものは説明ではないのだ。述懐的部分もあるが、必要以上のメッセージを一切省略するというより、寧ろ最初から必要以上のことを語ろうとするスタンスすらないし、そもそもそういう選択であるよりはずっと最初から焦点化された一点を透徹した眼差しで凝視すること以外の何もしないということを自然と執り行う姿を彷彿とさせる。
 それは短い一句を捻るツイッターにおいてさえ読み取れるし、俳句や短歌からも勿論読み取れる。何も武蔵だけがそういう姿を読み取ることが出来るのでは勿論ない。
 つまり同じ意味内容の伝達であっても、ニュアンスが個々異なることから、ある意味内容を行為した事実報告であっても、同じ真理に対する述懐であっても、個々全く異なった感情様相と、性格的傾向によってそれらがなされている、と言っても過言ではない。
 それは初めて電話で会話する顔を知らない人との遣り取りにおいても、その人間の性格的傾向性とか、対人関係的なスタンスの取り方さえ読み取れる。それはビジネス的内容の報告会話内容であっても、こちらが質問することに受け答えるサーヴィスであっても相手の表情を読み取ることが可能なのである。
 そういう意味では全ての言語活動はその人間の伝達メッセージ保有者、つまりメッセンジャーとしての性格と思想とを運ぶ表情さえも彷彿させずにはおかない。
 例えば文学者やエッセイスト、ルポライター、学者たちによる出版的行為のスタンス、どくくらいの頻度で出版物を刊行するかということから、ある意味では一冊の本の構成や文筆内容の選択、どういう読者層を狙っているかとかそういった全ての行為選択からその著者である人物の対人関係術とか思想、あるいは世界自体に対する接し方、人生全体への思想が読み取れる。それらが綜合されることによって、その人間の生き方全体から個々の瞬間の表情まで読み取れる。これが極めて興味深いことであると同時に、恐ろしいこともある。一年に一冊のペースで出版する人から数年に一冊のペースの人から、毎月数冊以上出版する人に至るまで彼等文筆業というきわめて限定的な範囲内でもその各自の思想、性格を読み取ることが可能である。従ってそういったプロフェッショナリティ自体から読み取れることが引いてはその人間の日常的な表情まで読み取れるようになる。それが判断ということである。あるいは解釈と言ってもいいが、極めて解釈と言っても、本質を読み取ることが容易なので、深読みとか、曲解といったことを誘引する可能性が少ない読みである。
 例えばある人のパソコン内にバックアップを取ってあるフォルダに対する整理の仕方自体がその人の性格を示すということは好例であろう。例えば或る人はフォルダの数が多い時にそれぞれをAとかBという風に分類しておくことを考え、そのフォルダをファイルの中に幾つか纏めておくことを考えるとファイルには1,2,3と数字を当て、フォルダを個々の記号を当てたい時にはAとA´とかA´´という風に分類していくということも一つの手である。あるいはファイルを大文字のA、Bという風にすれば、フォルダをa、bというように小文字にするというのも一つの方法である。
 しかしA、BもZまで多くなるとそれぞれ個々の情報の性格を一々記憶しておくことが大変なので、大まかに各ファイルを七つに分けて、AからGまでに纏めて、それらのファイルの中に更にa,bというファイルに分けて、個々のフォルダは1,2,3にするというのも一つの方法になる。つまり端的に情報収納してあるものの数と、その意味内容如何によって分類の仕方の合理的な仕方、つまり利用しやすさは変更されていく。
 だから人間をあまり深く人間関係的に立ち入らずに済ます場合は、それぞれ個々の成員に対してA、B、Cでも一向に構わない。しかし全ての成員をそういう風に分類しても記憶しきれるものではないから、却って個々の成員に固有の固有名詞を記憶しておく方が大勢の成員を記憶しておくためには便利である。つまり固有名詞とはその者の顔に対する記憶から誘引される、或る顔にある固有名という結びつきで覚えておくということである。
 しかし顔の特徴自体は表情の持っている普遍性とはまた違う要素のものである。違う性格である。つまりある細面の顔には神経質の人が多く、ふくよかな顔の人が大らかな性格であるとは言い切れない。そういう場合もあればその性格と顔の分類が一切該当しない場合もある、つまりこの二つは全く相容れない基準なのである。つまり骨相学と表情の持つ意味は全く違っている。我々はある文章とか文面、文体、言葉の選択から表情を読み取ることが出来たとしても、その人の骨相的面相を知ることは出来ない。
 勿論私が問題にしているのは表情である。そしてそれはある意味ではかなり普遍である。そしてデリダならデリダの顔を知っている場合、そのデリダの対人的な表情を思い浮かべることはたやすいし、ドゥルーズならドゥルーズのある文章を書いていた時の感情的な様相を知り、その感情を他者に対して抱いていた時の表情を想像することもたやすいであろう。しかしそれは写真などを通して我々がデリダとかドゥルーズの顔、つまりプロフィールを知っているからである。
 しかし先ほど述べたような意味でのファイルとかフォルダの整理の仕方自体に、ある人間の性格、癖、思考タイプを知ることもまたたやすい。つまり何に関心があって、何に対しては固有名詞まで知りたいと願い、何に対しては番号を振って分類したままにしておくかということに対する選別自体にある傾向が読み取れ、その人間の内的世界の表情が読み取れるのだ。
 私たちはアマゾンで買い物をする時出品者に固有の性格などどうでもよい。また大きな駅だが一度も利用したことがない別の地域から来た者が、ホームとか乗るための電車を尋ねる時駅員の性格とか人格、個性に対して大した興味などない。勿論女性駅員に何かを尋ねる時にその女性が美人であるということが印象に残ることならあるだろうが、それもずっと記憶に残るものではない。あくまで通りすがりの人である故、電車に乗って別の美人に目がとまればその女性へと関心を移行させる。しかしそれも勿論長続きはしない。と言うのも姿格好、あるいは顔立ち自体の美とか好感度と人格的な好感度が一致しないということを我々は知っているからである。
 しかし彼等の表情自体が印象に残ることはあり得るだろう。つまり顔立ちを忘れても駅内部の構造とかどの電車に乗ればよいかを尋ねた時に親切に教えてくれたとか、要するにそういう彼女の取った態度とか表情自体を事実として「そういうことがあった」と記憶に残すことはある。あの時のあの女性駅員は笑顔を対応した、という風に。
 それはあくまで実際に語ったりした時の実際の表情である。それと同じような印象を言葉自体、つまり文章とかメールの文面に我々は印象に残す。それは固有の性格を文章自体が持っているということだ。
 かつて私が属していたビートルズクラブにおける会報において、「ジョンは神様、ポールは天使、ジョージは仏様、リンゴはお地蔵様って感じがする」とか「これからも恐らくいつもビートルズを語る時ジョン、ポール、そしてジョージと、彼はいつだって三番目だろう。でもそんなジョージが僕は好きだ」とかの印象に残る文章とかメッセージはそれ自体固有の表情を持っている。だからそれはそれを語る人間のプロフィールがたとえ不明であったとしても、我々の印象の中で強烈な刻印を果たす。つまり世界中の全ての宗教的言説、偉大なる文学の一節といったものは全てそういう性格を持つのだ。そしてその固有の印象的な言葉自体に対する出会い自体が自分の人生において極めて印象的であったということも大きく関係している。それら全ては私たちの記憶が物語を好むという性格に由来する。
 つまり私が去年と今年行った京都旅行において、あるタクシーの運転手二人、一人は京都出身者、一人は大阪出身者であって、その時々で話した内容とか、態度自体はよく覚えているのだが(エピソード記憶)、その運転手の顔を正確には思い出せない。何故なら人間の顔自体を区別する脳の部位は既によく知られているが、顔、身体格好といった全ては情報量が多過ぎてどうにも全部を記憶収納することなど出来はしない。そこでエピソード記憶として我々は自然と対話とか会話の内容、あるいはその時の大雑把な表情、態度といったものをピックアップさせて記憶するのだ。
 しかし文章自体はかなり情報量が少ない。従って印象に残っている文章とはその文書との出会いである。つまり詩であれ小説の一節であれ、それと出会った瞬間どういうことをしていたか、とかどういう他者と親しかったかとか、どういう生活習慣で、どういう決意の下で生活していたかということが綜合されてあるものを印象的であり、別のあるものをあまり印象的ではないとさせるのだ。従って一般的に私は文学ではこういうタイプのものに惹かれる、それは文学テーマに関しても、文体にしても、小説の構成にしてもであるが、ある小説を印象的なものにしているということが、個人毎に全く異なっているという事態も生じる余地とはここにある。
 だから親しくなっていった人というのは顔も隅々まで記憶している。脳科学では新奇なものに対しては右脳で接し、それが習慣化されて既知のものとなっていった場合あくまでこれは統計的な数値としてであるが、左脳で処理していくようになるということが既に知られている。だから逆に創造性の富んだ人というのは、ある意味ではいつまで経っても、右脳的処理をしているということにもなるだろうか?そのことに関してはある感銘を受けた詩や小説の一節、あるいは好きな俳句などに接する時、好きなものに対してはいつまで経っても、既知のものにならないということはあり得よう。
 だからあるものを新奇なものとして認識してしまうということと、同じそのものに対して別の人は大して新奇には感じないということがあり得るわけだし、また新奇なものに対してすぐに既知的なものに転化してしまい、辟易としてしまうものもあれば、そうではなくいつまで経ってもずっと新奇性を感じ続けられる場合もあるということだ。勿論それらも個人毎に全てその対象は異なっている。だからある詩の一節とか全部、あるいは俳句を新奇なものとして感じるという最初の出会いにしても或る意味ではその人のそれまでの経験、エピソード記憶が集積されて出来上がった人格とも関係してくる。要するに経験と記憶があるものを印象的であるとして、別のあるものを退屈で陳腐なものとしているわけである。
 芸術家とは概して印象的なことに意識が釘付けになりがちであり、哲学者とは端的に非印象的なことの方にもより関心を注ぎ、何故印象的なものもあるのに、そうではないものもあるのだろうか、と疑問に思う。勿論モネとかセザンヌとかピカソのような偉大なアーティストたちは恐らく同一人物内に今挙げた芸術家的要素は勿論哲学者的要素さえ持ち合わせていただろう。要するに偉大なるクリエーションとは綜合であるからだ。
 執筆家にとって自宅の整理とはその創造者の性格とか思想を反映させるし、その部屋の佇まいを見れば一目瞭然としてその著述スタンスを読み取れるかも知れない。確かに抜群に整理の得意な人もいれば、然程ではない人もいるであろう。しかし知性溢れる作家などの書斎などは概して極めて雑然と本が積み重ねてあったも尚どこか知性の片鱗を仄浮かばせるものである。恐らく現代では携帯電話の他人の番号の記憶から、パソコンのバックアップされたデータの保存収納方法自体からも、その人間の知性から感情的様相、生活傾向まで読み取れるという意味ではそれらもまた表情が読み取れるということであるから、言語活動自体が我々の表情を代理している、と言っても差し支えあるまい。

 タグをつけることについて先ほど触れた。ファイルとフォルダのことである。しかし個々のタグに名称を与えるということは丁度銀行に各支店毎に固有名詞があることと、それを一括して処理するシステム上それぞれの店に店番号が必要であるように、タグにはそれぞれ固有の、しかし一切の性格的描写の皆無の番号という認識システムが必要である。しかしそれらは端的に一枚の固有名詞とタグ番号の対応表があればこと足りる。しかし勿論ある個人を識別する時にアジア人であり、その中で日本人であり東京に居住しているとかの、要するにタグ自体が意味する個への対応ということについてある分類根拠が求められるのだ。つまり銀行なら銀行の支店についている固有の番号はそれなりに出鱈目に対応させているのではなく、東京の電話局番が03であり、横浜が045であるような意味である根拠がある。
 しかし集合的な認識において合理的に他と峻別し得るのは、例えばある同一系列の銀行全部に同一の情報を送信する際に必要となるタグ番号という認識自体に、一切の表情は必要ない。数字に個性を表現する術はない。表情が必要とされる機会とは端的にその固有の銀行をよく利用する人にとっての利便性のみである。それは個人に対しても該当する。私たちにとって親しい間柄の人の自分に対する対応とか、表情は重要な意味を持つ。親しいと言っても、それは自然人的趣味の集いであれ、仕事仲間とか同僚とか同一業界内の知人でも全て同じである。その時問題とされることとは、端的にその表情はその個人に固有の癖であるという意味では唯一無二的なことであるが、同時に嬉しい時には嬉しい表情をし、悲しい時には悲しい表情をするという同一律的な意味での普遍的相同性があるということに尽きる。そういう意味では表情とはその表情を認識する主体である我々にとっては普遍的であり、一般的である必要があるにもかかわらず、ある者が示す嬉しい表情はやはり唯一無二であるという両義性があるということだ。
 だから個ということの意味は唯一無二でありながら、それが誰にとっても理解出来る唯一無二でなければいけないという意味ではウィトゲンシュタインによる私的言語を滅却した経路を辿ったもののみを唯一と呼ぶに値すると我々は規定している。だからこそ私たちは表情が言語を代理する、目は口ほどにものを言うとそう言うのである。

No comments:

Post a Comment