Friday, October 30, 2009

〔顔と表情の意味〕3、述定の心的様相 説明できないものと不可知論

 我々は印象的である事柄全てを適切に言語化し得るほど言語を発達させてはいない。というより言語行為だけに、その責任の全てを負わせてもいない。だからと言って言語活動が重要ではない、とは言えない。この世界には表現することが難しい事象が無限にある。しかしその無限性は我々が今まであらゆる言語行為において述語表現してきたもの、形容修飾してきたものが実際本当に適切であったのであろうか、という反省を促す。述定行為というものは説明することを一方でその性格として請負っている。説明されることによって聞き手はその言辞から何ごとかを情報として受け取るのである。その発話をした人間の感情、その発話の内容そのものが語る真実、それらの一切を情報として認知することと、その認知自体がその発話、発言を受容する個人としての自己による受け手としての感情であるという覚知を前提に我々はそれを記憶に留める。我々は他者の発言を意味内容的にも認識しているが、その話者の感情としても認識しており、更にその発話自体の記憶は、それを聞いた時の聴者としての自己の感情として記憶格納庫へと収納されるのだ。
 論理実証主義者たちは真理条件とか真偽性を通して統語秩序と意味内容的な真理の観点から言語活動を捉えた。それは論理的無矛盾性へと依拠した認識姿勢であったと言ってよい。しかし言語哲学者たちは、そういった無矛盾性への信頼過剰に対して懐疑的であった。そこで日常言語行為をもっと意思疎通の内的動機を重視する。その際に発語内行為というオースティンが提唱した概念が重要な意味を持つ。これはある発言を通してその内容を語ることとは、その内容を語る意志、その内容を信じていること、またその内容を語る他者に対して正しいから信じるべきであると推奨していることでもある、という考えによっている。その意味では日常言語学派はフッサール流の現象学とも幾分共通したところがある。そのことは数学者であり哲学者であったファイグルも指摘している。(「こころともの」187~188ページより)(またこの論理実証主義者と日常言語学派との間の関係や考え方の違いについてはカッツの著作「言語と行為」<大修館書店刊>に詳しい。)
 私が「その話者の感情としても認識しており」と言ったのは、日常言語学派からも散見される考え方である。(「意味内容的に認識している」ということが論理実証主義者たちの考え方であるし、それもまた重要な観点である。)しかし私は更にそれに発話行為自体がある他者から得た発話からの情報が意味あるものであるのか、ということに対する評定というものは本質的に意味内容如何に係わらず、まずその他者に対する信頼感に、その他者の言うことは正しいことなのかどうか、ということの判断は依存する、ということを付け加えたいのである。しかしここからが難しい問題である。ある人間に対する評定というものはある人間の言動に依拠する。しかしその人物に対する過去データによって形成されたその人物像、つまりその人物に対する認識は長期間、言動の数々によって示された傾向に対する認識によって固定化される。そしてそういった評価がいったん固定化されてしまうと、仮に次の言動が正しいものであるか間違っているかに係わらずそれ以前の言動を基準にした評定によって信頼の有無が決定されてしまいがちである。いい評定が定着されていればたとえ間違った言動でも信頼されてしまうことはあり得るし、また逆に悪い評定が定着されていたなら、たとえいい言動でさえ一切信頼されることはない、ということもあり得る。そういう意思疎通の基盤にある話者同士の信頼感、他者に対する信用というものは今まで哲学においてはあまり重要視されてこなかった。そこを私はもう少し考えてもよい、と言いたかったのである。
 
 話しを戻そう。
 全ての印象的な事象が形容述定や修飾、述語的様相構築が容易であるわけではない、という厳然たる事実こそが「難しい」とか「不可能である」とか所謂困難さを表現する形容語彙と慣用句が齎されたことの理由であると思われる。しかし容易に形容出来るものは、ある意味では無個性である、とも言い得る。ただ理解しやすいものであるだけで、それが意義深いものであるとは限らない。我々が証明し得るもの、論理的に矛盾がないと評定し得るものとは、実際上は全事象の中のほんの一部でしかない。だからといって論理的に矛盾をきたす事象が実在的ではない、とは決して言えない。にもかかわらず科学は時として証明された事象だけを確然的であろうとする。証明不可のものの実在は明白である。それは我々の知のレヴェルがその事象を証明するに足るにはまだ発達途上であるに過ぎないのである。「あまりにも無個性的であるが故に、反って凄く印象的であった。」とか「影が薄かったのでよく覚えている。」というような言辞は、その人間が、というより我々の言語自体の現状における不備がそういったカテゴライズされ得ない事象のカテゴライズを永遠に反復してゆく運命を我々が背負っているということを覚醒させる。そういう形容し難いものを巧く形容しようとしていい表現や語彙を用意する。しかしその語彙では表現し切れない事象と、すぐに我々は遭遇する。また語彙を用意する。その繰返しである。
 このような形容不可物に対する一時的な一括処理的形容省略表現及び語彙(「無個性」、「影が薄い」、「殺風景」といったもの)はある意味では言語活動における無意識(この言葉は何とこういう場合に便利なのだろう。)的エポケーである。
 
 論理を超える多くの事象の存在について触れたが、しかし私は論理が必要ではない、と言っているのではない。勿論それは必要以上に必要であろう。例えば現代の棋士たちは綿密なデータ記憶とそれを瞬時に判断する能力を問われているが、彼らの必要以上に必要な論理性プラス最後に勝敗を決するものは何かと言えば、何か心理的なもの、物怖じせず、他者のことを必要以上に気に掛けないことなど、つまり論理性を超えた何物か、それは精神的なことでもあるし、何か他のことかも知れないが、そういうことが関係してくる。それは現代のスポーツにしても同じことが言える。現代の選手たちは綿密なる科学的合理性を熟知して試合に臨むが、最終的に敵方と競り合っている場合、ほんのちょっとした精神的な余裕とかが勝敗を決することということはよくあることである。勿論緊張せずにリラックスすれば何でも巧くゆくという簡単なものではない。適度の緊張は大切であろう。しかしその緊張を楽しむという心の余裕のようなものが要求される。そういう意味で論理というものは充分必要であるし、知識も同様であろう。しかし我々は同時に論理や知識が役に立たないこともあるのだ、ということも肝に銘じておかねばならないのだ。つまり無意識的エポケーによって保留にしている幾多の不可解さに対する形容語彙の見つからなさから、語彙創造に対する努力を意義あるものと認識してゆかねばならないのだ。
 論理というもの、つまり証明され得るものでなければ、それを否定してよい、ということにはならない、しかしだからと言って証明され得る論理を蔑ろにしてよいということにもならない、というような主張をカントは「純粋理性批判」で次のように述べている。

(前略)理性の思弁的使用においては、仮説は臆見としてそれ自体妥当性をもつものではなく、ただ相手の僭越的主張に関連して相対的な妥当性をもつにすぎない、ということである。可能的経験の諸原理を物一般の可能に及ぼすことが僭越的であるのは、或る種の概念_と言うのは、その対象が一切の可能的経験の限界外でしか見出され得ないような概念の客観的実在性を主張することが超越的であるのとまったく同様である。純粋理性が実然的(assertorisch)に_即ち真実として判断するところのものは、(理性の認識する一切のものと同じく)必然的でなければならない、さもなかったらそれはまったくの無である。それだから純粋理性は、実際には臆見を含むものではない。また上に述べたような仮設は、蓋然的判断にすぎない。かかる判断は、もちろん何ものによっても証明せられ得ないが、しかしそれかといってまた少なくとも否定されもしないのである。従ってこれらの仮説は決して個人的臆見ではないが、しかしややもすれば擡頭する疑念に対抗するものとして(安心のためにも)やはり欠くことができないのである。我々は仮説にかかる資格を与えるだけにとどめねばならない、それどころか仮説がそれ自体証明されたもの、或は幾分なりとも絶対的妥当性をもつものとして振舞い、理性を想像による拵え物やまやかし物のなかに惑溺させることのないように、十分に意を用いねばならないのである。(下、78ページより、篠田英雄訳、岩波文庫)

カントが理性の思弁的使用と言っていることとは、今日的に言えば論理的無矛盾性への、つまり理解する一つの仕方として論理的な整合性を持つことから真理を炙りだすことを目的とした行為と考えてよい。というのもカントはここで、「我々が経験によって知り得ることには限界があるし、そういった限られた経験によってのみ構築された法則のようなもので全ての事象を証明していては危険である。我々はある意味では全ての事象を経験にだけ頼って判断していくことは不可能であるし、時間の浪費だから、時には我々が経験によって設定された法則を使用して論理的思考にのみ頼って判断し結論を出さなければならない時もある。だが我々は経験外にあることをあたら存在し得ると主張し過ぎてもいけない。経験外の判断に頼り過ぎてもいけない。しかしまた同時にそういった仮説というものを有効に使用し得る時もあるのだから、真理であると証明され得ないからといって否定してもいけないのだ。にもかかわらず、その経験外の判断は思い違いではないものだが、あくまでそれは方便としてのみ留めておく必要もある、そうでなければ理性というものがたちまちの内に、経験などどうあってもよいというような思いあがりに陥る」ということを言っているのだ。ここには理性によって批判し、その理性をも同時に批判するというカントの反芻的手法が垣間見られる。
 我々は実際に社会に係わる上で情報というものを授受して生活している。それらの大多数は通信や放送などによって得たものであり、自分の目でその場で確認してきたものではない。プロクセミックスという学問の創始者としても有名な人類学者、エドワード・ホールは次のように示している。(「かくれた次元」みすず書房、7ページより)

人間は、驚くべき、そして非凡な過去をもった生物である。人間は自分の体の延長物(extension)と私がよぶものを作りだしたという事実によって、他の生物と区別される。人間はこの延長物を発展させることによって、さまざまな機能を改良したり特殊化したりすることができた。コンピューターは脳の一部の延長であり、電話は声を延長し、車は肢を延長した。言語は体験を、記述は言語を時間・空間内に延長した。人間は彼の延長物であまりにも作りだしすぎたので、われわれはともすれば人間の人間たるとが彼の動物的本性に根ざしていることをわすれがちである。人類学者のウェストン・ラ・バール(Weston La Barre)が指摘するとおり、人間は進化を自分の体からその延長物のほうへ移行させ、そうすることによって進化の過程をおそろしく早めたのである。

この考え方は独自の利己的遺伝子理論を持つことで知られる、進化論遺伝子生物学者リチャード・ドーキンスにも見られ、彼はビーバー等がダムを作り環境を作り替えることを自己身体のみによる活動を超えた種の利益を齎すこの種の動物の行為を、それは人間の社会や都市にも全く該当するのであるが、自己の行為の意志(環境に働きかける)を自己身体活動範囲の限界外にまで及ぼす環境自体の創造を<延長された表現型>であるとして、遺伝子の作用がそこまで及んでいる、と考えている。ドーキンスの考え方が遺伝子自体の能力の発現可能性と拡張された応用能力と捉えるか、遺伝子自体を過大評価するものであると捉えるかは、どの事実に焦点を当てて考えるかによると思われる。
 本論でも論じてきたマスメディアは我々が自己身体の移動を主とした経験によって自分の足を運んで自分の目で確かめる能力を通して知り得る範囲を遥かに超え得る情報を獲得しているが、それらはマスメディアが通信によって授受したものをそのまま流用させたものであり、自分で確認したものではない。あくまでメディアを通した情報でしかない。しかしだからと言って情報を遮断しては生きてはゆけないし、また情報によって我々は恩恵を受けてもいるのだから、それを認知し感受することは他者との意思疎通やニュースを見たり、新聞を読んだりすることなどから考えても大切である。このような便利さと言うよりはメディアの脅威とでも言うべき現状において、自己の確信というものと、自己が持つメディア自体が我々に認知させる情報に対する信頼というものの分離は既に不可能である。そういう観点からカントや他の哲学者の論理を読み解くと現代社会への提言であるように思われる無数な述定を我々はそこに見出すことが可能である。

 言語哲学者のサールはオースティンとストローソンから正統的な言語哲学派の考え方を継承してきた哲学者であるが、自ら影響を受けてきた哲学者のオースティンやライルを批判し、修正を加えている。サールの考え方は次のような骨子で構成されている。

同定⊂述定
同定⊂指示
指示∩述定=同定

 ライルは「ふりをする」という外面的顕現を齎す行為と、心的内容を一致させることを、認識の基本にした。(人間はそういう風に行かないこともあるが、殆どは一致すると思われる。)その態度こそ彼を行動主義哲学者と一般に呼ばせる所以である。しかし恐らくライルはサールにとっては明快過ぎたし、ストローソンは難解過ぎたのだろう。
 オースティンはconstativeとperformativeという二つの動詞使用を巡る解釈をしたが、彼が真に言いたかったのは、両方とも後者に吸引されるような発語内行為として捉えたいということであった。
 デヴィッドソンは意思決定は条件節を付帯させるような厳密さよりも、単刀直入で単純であることであると考えた(「行為と出来事」)が、それは同定と指示が必ずしも一致するとは限らない、という表明とも同義である。しかしサールは述定を志向性の顕現として捉え、その志向性を確定するものとして指示を捉えた。そしてその全体を事実として同定という行為として捉えた。要するに述定というパワー(クオリア)と、指示というイデアはその二つを交差して「生の時間」を構成しているように、前者をハレ、後者をケとして往復運動するその行為の全体を同定と捉える。同定は命題の肯定である。(否定は同定の否定、つまり命題全体の否定に他ならない。)クオリアは生の中の肯定的側面であり、長期持続は疲労を伴う。しかしイデアは認識なので、比較的持続可能である。

イデア=空、無、無常 クオリア=充実、生、有、不変

という図式がここで与えられる。ここで読者はイデアこそ普遍であり、不変であると反論されるかも知れないが、イデアは無常であること、つまり相対的であることは哲学史を見ても、各哲学者間におけるイデアに対する考え方の違いから明白であり、しかもその相対的で、無常であることにおいて不変で絶対である。そういうイデアの無常という事実(あるいは事態)に対するクオリアは絶対的に有であり、不変(普遍)なのだ。
 クオリアは通常それを感じる人間の過去の経験や第一印象も大きく関わるので、私たちはその感じ方をなかなか変更させることが出来ない。余程の人生全体に関わる価値転換(そういうものは通常の人間の場合、幼児期か思春期以内に経験済みである。)がなければ、容易に変わらない。我々は惰性としてクオリアをも引き受けがちである。惰性とは不変への傾向性であり、サルトルも大きく取り上げている。ライルとサルトルは異なった潮流の存在同士だが、方や内と外の一致、方や本質否定と実存のみを肯定する明快さにおいて極めて共通した哲学資質的クオリアの所有者たちである。
 私たちはこのように異質のもの同士に同質性を、逆に同質のもの同士に「異」性を、曖昧なものを一つの方向へ、逆に収斂されたものを分解することを個人史的にも、日常行為連関的にも、社会、政治、思想、生活スタイル、信条、心情、宗教心、流行といった場面でも常に往復運動をしてきている。平凡なものにどっぷり浸かっていると変化を、変化が激し過ぎると安定を求める。そういう意味では哲学は常にこの二つの往復運動によって哲学者個人においても、潮流や先人から後輩へと至る世代交代においても、反復してきていると言えよう。私たちは比較的四肢を中心とする身体が疲労しない会話を、通常の行為よりは持続することが可能だが、会話は頭が疲れるのだ。脳と身体の関係において述定は脳の判断、指示は決定(行為へと直結する)、同定は思惟も行為も含めたその全体(発語内行為として、あるいは説得、主張と言い換えてもよい。)のことを言う、とサールの論は読み取られる。
 ここから私たちが学べることとは、意志することが行為にせよ、発語にせよ、他者を取り込みながら自己の位置を確認し、自己領域を空間的にも、精神的にも確保することは、取りも直さず他者のそれを尊重することであり、他者存在そのものを承認することに他ならないということである。それを承知の上でマスメディアを我々は作ってきたし、利用してきたのだ。マスメディアが流す情報はある意味で他と共同体そのものの存在の幻影である。しかしそこから我々は実像を読み取る。その実像にはマスメディアの情報を摂取する私たち自身一人一人も当然含まれる。
 第一章でも述べたが、我々はいざという時には経験が何の役にも立たない面があるのを知っている。にもかかわらず、他者を裁定する時、信用出来るか、信頼出来るか、そうではないかの判断をその人間の履歴とか経歴を参考にする。そして経歴とか履歴といったものは権威という傘の下にあるものである。しかし経験がいざとなると役に立たないのに、一般常識という名の見識を有効に利用するということは、一つ一つの行為や判断に人生の全てを賭けて行動するにはあまりにも非常の場合に必要とされるエネルギー温存のためにはリスキーであるという一事に集約されると私は思う。我々は知識という経験をフルに利用している。実際我々が接する全ては未知のものであるにもかかわらず(従ってそれぞれは異なったクオリアを持っているのだ。)、それらを一括して概念規定したり、その他大勢としたりするのは、未知性を絶えず既知性へと送り込むことによって自分とって掛け替えのない未知性へと邂逅することを選択しているからである。何もかも新鮮に接することは、何もかも等閑にすることにも等しいということを我々は知るから、我々は取捨選択を行うのだ。そういう意味では我々は少数の他者との間でのみ善良な市民であり、他の大多数の他者の幸福も不幸も、大した大きな問題ではない、要するにそ知らぬふりをして生きている。
 家族、友人、同僚、そのいずれを大事にするかも個人の選択に委ねられている。そもそも哲学は、そういった選択には一切口を差し挟まない。だからこそどこからでも入ることが出来、どこからでも抜け出ることが出来るのだ。哲学への問いは社会、言語、人類の性格、性質、傾向性、本能、理性、感情、意志、意識、生と死といった問いをこれからも続けるであろう。しかし大切なこととは、その問いのいずれもが正しく、いずれもが普遍ではないということ、そして永遠に全ての謎が解かれることはないということ、しかしそれでも我々は絶えず問いをし続けることを止めないし、そうすることには意味があるということ、そしてその意味は何かを得るために意味なのではなく、問い続けるためにこそ意味があり、それ以外のことについては無意味でもよい。こうしている間にも大勢の人間が死に、大勢人間が誕生している。いつかは人類全体が死滅する瞬間も訪れることであろう。しかしその時までに我々一人一人が生を受けてこの世に生きたという事実が意味あることであると感じられるために我々は問い続けることを止めないであろう。それだけは確かである。人間の社会は我々が考えるよりずっと狭いし、小さい。自然全体から言えば、人間の自然へと与える影響力は、地球環境全体の荒廃が叫ばれているにもかかわらず、極めて小さいと思う。なぜなら仮に地球に人間が住めなくなることがあっても尚、地球環境そのものは何らかの形で存続し、別の種類の生物にとって恵みを与え続けるだけだからである。地球そのものが破滅するその瞬間まで人間がもし仮に生きられたとしても尚、地球滅亡後には宇宙の果てでいつかは地球に似た星も登場することであろう。その時にもまた人間と似た生物が登場し、我々のように何かものを考え、何かを残そうとするかも知れない。そもそも地球が誕生するよりも前にも、そういうことはあったのかも知れない。そういう生命同士の相互の交流は恐らく不可能であろうが、その可能性に賭けることには意味がある。なぜなら彼らもまた顔と表情をそれなりに持っていると考えられるからである。(了)




参考文献
釈迦無尼「ブッダのことば」(岩波文庫)、ルネ・デカルト「省察・情念論」(中公クラシックス)、インマニュエル・カント「純粋理性批判」、「実践理性批判」(岩波文庫)、エドワード・サピア「言語」(岩波文庫)、ルードウィッヒ・ウィトゲンシュタイン「哲学的考察」「探求」(大修館書店)、マルティン・ブーバー「我と汝」(岩波文庫)、ジャン・ポール・サルトル「存在と無」(人文書院)、A・J・エイヤー「言語・真理・論理」(岩波書店)、ギルバート・ライル「心の概念」(みすず書房)、ジョン・ラングショー・オースティン「言語と行為」(大修館書店)、エマニュエル・レヴィナス「全体性と無限」(岩波文庫)「存在の彼方に」(講談社学術文庫)、ハーバート・ファイグル「こころともの」(勁草書房)、J・J・カッツ「言語」(大修館書店)、デズモンド・モリス「裸のサル」(河出書房新社)、リチャード・ドーキンス「利己的遺伝子」、「延長された表現型」(紀伊国屋書店)、エドワ-ド・ホール「かくれた次元」(みすず書房)、ソール・クリプキ「名指しと必然性」(産業図書)、ドナルド・デヴィッドソン「行為と出来事」(勁草書房)、ジョン・R・サール「言語行為」(勁草書房)、中島義道「時間と自由」(講談社学術文庫)、信原幸弘「心の現代哲学」(勁草書房)、茂木健一郎「意識とはなにか」(ちくま新書)、梅田望夫「ウェブ進化論」(ちくま新書)

 付記「顔と表情の意味」はここで終わりですが、ブログは引き続き「表情の言語哲学」②を更新していきます。数日休暇を取らせて頂きます。(河口ミカル)

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