Wednesday, October 21, 2009

〔顔と表情の意味〕3、述定の心的様相 肯定と否定 形容詞の場合

 今仮に「長い」という概念はあるが、「短い」という概念が存在しない言語が存在するとしよう。(実際我々の使用する日本語には「わかる」という概念はあるが、朝鮮語、韓国語<ハングル>にあるような「わかる」の対概念の動詞は見当たらない。「わからない」はあくまで「わかる」の否定形でしかない。)この言語においては「AはBより長い」は陳述出来るが、「BはAより短い」とは陳述出来ない。すると「BはAより長く(は)ない」というようにしか陳述し得ないということになる。そのことは「短い」という概念しかなく、従って「長い」とは陳述出来ないような言語があるとしたら、そういう言語においても同様なことが言えよう。
 ということは我々の言語においては「長い」だけしかなく「短い」がない言語や「短い」しかなく「長い」がない言語における可能性として考えられる陳述のパターンの全てを駆使し得るということと論理的にはなるであろう。そこで用いられる用法は「長い」しかない言語(Lとしよう。)と「短い」しかない言語(Sとしよう。)(また我々のように「長い」、「短い」の両方を有する言語をNとしよう。)の全ての可能性を踏襲することが原理的には可能な言語の所有者であると我々自身を概念規定することが許されよう。
だから自動的に我々は①「AはBより長い」を次のように言い換えることが可能となる。

②「BはAより長く(は)ない。」(NとLでのみ使用可)

③「BはAより短い。」(NとSでのみ使用可)

④「AはBより短くない。」(NとSでのみ使用可)

では、この四つは真理条件的には確かに同一の事態を述定しているわけであるが、果たしてそれらを語る時我々は心的に全く同一の様相で語っているのであろうか?
 
 結論的に言えばそれは全く違うだろう、ということである。
 ①と③の二つは肯定形であり、残りの二つは否定形である。この否定形は話者が聴者(今後これも話者とする。)へ意外であると思わせることを想定し得ることに応じて発話の意義を自認し得る性質がある。否定的帰結の想定が裏切られる、つまり肯定的帰結こそ意外性が最大値となることもまた然りであろう。(後述する。)
しかもそればかりではない。話者への期待感に応じて陳述されることとはメジャー、マイナーの差が述定形容に存する。
 肯定形の内でも「長い」はメジャーであり、肯定的、「短い」はマイナーであり、否定的である。
するとこうなる。
「AはBより長い」
は肯定的内容の肯定形(A)
「BはAより短い」
は否定的内容の肯定形(B)
同様に残りの二つは次にようになる。
「BはAより長くない」
は肯定的内容の否定形(C)
「AはBよりも短くない」
は否定的内容の否定形(D)
ということとなる。
(A)は二重に肯定であり、(D)は二重否定となる。
この四つのパターンにおける心的様相を性質上検討してみよう。
(A)において述定そのものに逡巡はない。その点では(B)も同様である。それに対して(C)、(D)は命題設定とその否定という意味で逡巡が存在する。しかしそれは、この二つの文章の前後関係(文脈)に如何なる文章が来るかに依存する。
この4つの文章を仮に今次のような文章を置くことで考えてみよう。
疑問文「AとBはどちらが長いですか?」
この時(A)は最も順当な返答であり(尤も(A)よりも更に「Aです。」が最も順当であるが)(B)はそれよりは屈折している。
しかしそれは(C)よりはましである。だがこの4者の中で最も屈折しているのは(D)であろう。
この言い方は学者的言辞である。
「~するのに吝かではない。」式のものである。
この問いが「AとBどちらが短いですか?」
となると次のように反転する。
 上記の(A)が(B)に、上記の(B)が(A)に、上記の(C)が(D)に、上記の(D)が(C)へと反転する。
 しかしこの場合質問自体の心的様相にも違いがある。最初の質問は目立つものを指定させる意味で返答者に対して配慮があるが、次のものは挑発的である。
 この2つの質問が、たまたま質問者が手渡して欲しい特定の何かに対する請求でない限り、上の配慮の有無(後者は挑発的)は歴然としている。
 一つの真理条件を、その述定するパターンにおいて、その前後の文脈が作用することとは疑問文と返答文である場合、質問者と返答者の他者に対する誠実性であることは明らかである。
 一つのパターンはそれ自体では何ら命題論的意義を持つことはない。述定性としての様相でしかない。しかしそれは前後の文脈において初めて順当、非順当、適切、不適切、自然、不自然といった性格が浮かび上がる。その時初めて会話が事実となる。このことは文章の持つ真理条件及び述定そのものの性格はそれ自体では一つの様相にしか過ぎず命題論的な連関への認識によって事実の構成要素となる、ということを物語っている。そしてここで最も顕著なこととは4つのパターンはどのような質問と返答になろうとも、一つ一つの絶対的性格は相対性如何にかかわらず不変であるということである。
 「短い方の木っ端を取ってくれ。」と大工の頭領が部下に言ったりする場合以外、通常我々は何かを質問する時、マイナーな方を問質すような質問の仕方は順当でも自然でもない。
 例えばフィギュア・スケートの両雄AとBを比較した会話の時、その試合を観た方に対して観なかった方は通常「AとBのどちらの方がよくなかった(下手だった)?」という風には質問しないものである。これは文章にのみ特徴的なことなのだろうか?数学の場合全く当て嵌まらないのだろうか?
 プラスとマイナスの場合は_。(今後の課題としたい。)
 その問題に踏み込む前に上記の質問の可能性について考えてみよう。
 今まで挙げた二つの質問には、先述した4つのパターンの返答よりも最も順当な返答として「Aです。」があるが、それ以外の返答の存在可能性として4つのパターンが想定される時、その想定は質問自体に内在する命題条件に対する誠実性の有無を確認することから順当さを評定する意味を物語っている。
 今仮に質問を「AはBより長いですか?」に変えると最も順当かつ自然な返答はまごうことなく、「そうです。」となるわけだが、それに対して(A)は鸚鵡返しとなり、ただ返答内容を質問者が確認したい場合にはくどく多少不自然でもあるが、時としてある質問意図において話者(質問者)ともう一人の話者(返答者)間において、ある同意確認意図を持つ場合、後者の側の打診を前者が承認した時にのみ、より相互意図に対する信頼感確認行為となり得る。つまり質問に対する返答の順当さと意外さとは質問者と返答者の相互の意図を理解し合えるということと、相互にその質問意図と返答意図を尊重し合えるか否かという位相において初めて決定され、その質問意図と返答意図が波長を合致させ得た時にのみ我々はその意思疎通を意味あるものと確認出来る。結局意思疎通というものは質問意図と返答意図が相互に順当であると認識出来る(時には質問意図を返答者が怪訝に思うこともあるし、返答意図を質問者が怪訝に思うこともある。しかし質問意図を返答者が怪訝に思うということは大概質問者の質問の仕方に問題があったのであり、返答者が質問者の想定外でしかも非順当な返答の仕方をする場合、大概質問者の質問に対して返答者が怪訝に思えたことをの表明しているのである。)し、またその質問と返答の受け答えの自然さを相互に確認し合えるか否かということが、意思疎通上の充実を獲得しえるか否かということへと直結するのだ。
 だからこの場合BはAより長いという命題に対して否定する議論の上で成立する確認の様相であるということである。だからこそ鸚鵡返しにおいても相互に順当さを感じあえるということであり、それ以外のケースでは誠実性という観点からは鸚鵡返しはくどいばかりでなく、失礼である場合さえある。それは質問者に対する返答者の質問自体への不快感表明となる。
 これらのことは「AはBより短かく(は)ないですか?」となると一部反転することは前記同様である。(「そんなことはない。」と言えばよい。)また「BはAより短いですか?」であると前者においては(A)の返答は天邪鬼な返答となる。また「BはAより長くないですか?」という質問はそれ自体が「BはAより短い。」という誤った考えを指摘する意味(文脈)においてのみ順当な質問ということとなる。それ以外のこの言辞にはある種の不自然さが付き纏い、非順当ということとなる。その時(A)の返答をすることもやや不自然である。こういう場合「そんなことはないですよ。」と言えばよい。
 肯定する時は、一般的にある命題の真理条件の最も順当な記述をなしているので、心的様相において述定を聞く話者が、それを理解していることに疑いを差し挟まない。(もし話者が誤った真理を告げる場合でも、よほど偏った意見でもない限り注意していなければ聞き過ごし勝ちである。)しかし否定する時、否定された事態自体を主張する、つまり真理条件の矛盾を指摘するのであり、否定された真理条件に対する言及となり、批評となり、批判となるから、この時前提である真理条件自体の否定となるので、それを聞く話者は意外性を心的様相に抱く。構えるのだ。「待てよ。本当にその通りなのかな?」という心的構えである。勿論それは「まさかそうではあるまい。」と発語を聞く話者が通常思っているのに、発語する話者がそれを意外にも肯定する場合にも当て嵌まる。
 あるいは例えばまさかこの後に及んで彼が最早来るまいと思っていたのに、意外にも来たというような時、その意外な事実を誰かが告げる時よりも、彼が来ることは最早疑う余地がないと思われていたのに、来なかった場合の失望感の方がより大きいと思われる。というのも前者は明らかに彼に対して皆が悪意を持って臨んでいるのに、それを意外にも彼は意に介さないという結果となったのであり、「彼来なかったよね?」という質問に対して「いや来たよ。」という場合の質疑応答に見られる心的様相は失望というよりは、「してやられた。」という後悔である。それがどんなに政治的に許される最低限の決断であっても彼を来難くさせたこと自体は悪意に満ちた行為である。彼が来ることを阻止することが仮に正義であってもそれが滞りなく功を奏さなかったということは善意で彼に臨んだ時(例えばお願いだから来ないでくれないかと依頼するというような)よりも後悔を残す。卑怯な方法が巧くいかなかった時の地団太踏みである。しかしこれは大人社会ではよくあることであり、この嫌がらせが通じない相手に対しては「彼を見直した。」と言いながら、強い意志の持主であるという風に通常我々は彼を肯定的には捉えないものである。それに対して後者は「彼来たよね?」という確認の質問に対して「いやそれが来なかったんだよ。」という想定外の事実の報告となるのだ。それは最も失望感を聞く話者に齎す。というのも報告する者が失望した態度で報告しているに違いないからである。そうでなく喜んで報告したのなら質問者と返答者は信頼感が希薄である、つまり利害が一致していない人間関係であることとなる。
 纏めよう。前者の返答に対して質問者が抱くのは自己を含む複数の成員が彼に対して悪意を持ち、来難くさせたことに対する贖罪の心理を介在させることとなるのが最も一般的ではなかろうか?そうではなく、もし彼が実際話者を含む複数の成員の思惑通りに来なかった場合には安堵の心理を介在させることとなるのが最も一般的であろう。「そうだろう。よかったね。ほっとしたね。」という悪意の合意のウィンクが齎されるであろう。
 つまり来ない筈の彼が来た場合、失望感というよりは意外性という、あるいはもっと極端な場合には驚愕、狼狽を誘うのだ。あれだけ巧く婉曲に来ないで欲しいと切望する態度を示したのに彼には通じなかった、という心的内容である。
 肯定も否定も想定された通りにそれが告げられるのと、その逆のこととして告げられるのとでは、相対的に異なるのだ。まず悪意に満ちた策略が功を奏さない場合と、善意に満ちた努力が功を奏さない場合では前者の方が諦めもつく。もし結果報告において策略が巧くいかなくても、そういった想定外の報告に対する反応としての心的様相は展開された結果が、思惑と異なるも(つまりある程度そう巧くはゆくまいと思っていたとしても尚)、ある程度は想定されたことであるから諦めはつくも、悪意なく、善意のやり方で他者を引き入れようとして万全に臨んでも尚やはり好結果を齎さずに他者の信頼を得られない場合には、絶対値的に期待はずれであるということなので(引き入れようとした他者へ持つ人物評定を誤ったかという観念を抱きつつ)、失望感は善意にもかかわらず肯定的結果や帰結が裏切られる否定陳述(報告)の場合が最も大きい。だから、ある程度最初から舐めてかかっていたこと(あいつはのせられやすいから巧く利用してやろうぐらいに考えていたような悪意といまではいかないが、対象となる他者を舐めていたということを知っている場合)を実は薄々感づいていた場合には出されたものが好結果ではなくても「ある程度は予想されたことである。」という観念があるから諦めもつく。しかしそこまで事後的に反省すべき事態ではなく他者に対して善意で接している場合には、我々は想定されたこととは言え、悔しい思いを持つものである。
 次に今まで述べてきた好結果ではないことに関する否定的帰結陳述(報告)によって期待が裏切られることで齎される失望感の大きいものから順に列挙してみよう。
① 肯定的想定を裏切る否定的陳述(しかも善意である事項、対象に臨んでいる場合)
② 否定的想定を裏切る肯定的陳述(ある程度悪意を持って策略的にある事項、対象に臨んでいる場合)
③ 否定的想定を叶わせる否定的陳述(上に同じ)「やはりそうだったか。そりゃそうだよ。世の中そんなに甘くはないよ。」という心理である。
④ 肯定的想定を叶わせる肯定的陳述(①に同じ)
しかし意外性、つまり究極的には驚愕と狼狽という意味においては、次のような順序に改変されよう。
②、①、④、③
という風に。④と③が④の方が大きいのは努力しても、そういつも巧くはゆかないものである、という観念を持っている人間の場合には順当な反応であろう。というのもやはりどんなに努力していても、それが叶うことというものは嬉しいものだし、それはあくまで謙虚な態度で臨む人間の心理としては最もあり得ることであるから。それは意外性であるが、本当に努力して得た好結果であるなら、我々は通常それを順当な結果であるとその内に当然のこととして受け入れるものである。それに対して事後的に自己の努力や結果の想定の仕方に対して反省材料を見出せる場合には、そのよくない結果に対しては、潔く認め狼狽心や驚愕心は意外と少ない筈であろう。(②が最大なのは贖罪意識が働くからである。)
 
 
付記 最初の長い、短いという語彙の片方しかない場合、我々の文明ではないケースにおいては、例えばマヤとかアステカのような場合には小さいとか短いというマイナーなものの方に価値がある場合もあり得る。しかしこの論考においては敢えてそういう文化人類学的現実外の、つまり論理的性質としての片方の語彙しかないという思考実験であったことをお断りしておく。

No comments:

Post a Comment