Tuesday, October 27, 2009

〔顔と表情の意味〕3、述定の心的様相 対概念、肯定と否定の感情的個別性と非対称性

 選挙で政治家に投票する時一番重視するのはどのような選択基準を持つ人間でも、例えば一回聴いてもう一度聞きたいと思うようなミュージシャンのCDを買うということが最も大きな判断であるような意味で、何か民衆を惹きつけるべく要素、その部分に賭けてみようと思わせるところであろう。そういうものは肯定的なイメージを与えるであろう。そういう観点では言語活動において肯定的な言辞が果たす役割は否定的な言辞よりも説得力を持つ。説得力を持つものとは誰しもが正しいと思う真理である。それに引き換え否定的な真理とは本来肯定すべきもの、肯定したいけれど致し方なく否定せざるを得ないもののみに限定して、するべきものであるし、そうしたいと人間は望む。そういう意味では時として衝撃的なニュースをそれが自分とかかわりのない地域の不幸であるなら時として話題提供的な意味で人は歓迎するようなクールさも持っているが、それはあくまで自分を巡る日常的な生活が脅かされない範囲での話しである。
 動詞では行くべきところを行かないで済ました、ということが肯定的に捉えられる雑事であるような場合以外は行くということは警察や刑務所のような場所でない限り大概肯定的に捉えられるであろう。悪い事態を表わす動詞の否定形以外は肯定的な言辞を人は望む。
 「失う」、「亡くす」といったものは悪癖(悪い習慣)を「止める」ような場合にのみ肯定的であるが、そもそもそういう風に否定的に言辞する必要のない最初から肯定的であるだけのものが一番好ましいと人間は思う。「彼女綺麗だね。」という言辞が一番常に歓迎される心的様相である。その「彼女が綺麗でなくなった」、底意地が悪くなったということがあったとしよう。そして彼女が改心してまた昔の綺麗さを取り戻したとしよう。その時に「彼女一時期に比べて酷くなくなった。」と言う場合、それは肯定的な言辞であるものの、最初の言辞以上の肯定ではあり得ないという意味において否定を否定する言辞以上に肯定的でだけあることが最も望ましい状態であることは真理である。
 だから「変わる」とか「変わらない」という場合のように悪癖や悪事をすることにおいて「変わる」ということは肯定的なことであるし、またその場合「変わらない」ことはよくないことである。しかし肯定的な形容や評価しか当て嵌まらない人間に対してとか、真理に対しては「変わらない」ということは歓迎すべきことである。だからそのような意味において事件が「起こる」ことは通常好ましいことではないが、功を急いでいる若き刑事にとって事件が「起こる」ことは心躍ることであるかも知れない。しかし通常よくないことは「起こらない」方がよいとされるし、「起こる」こととは大概衝撃的な事実、現象である。また動詞や形容詞には対語というものが存在する。「生きる」の対語は「死ぬ」であるように、「開ける」に対して「閉める」が対応する。そのような観点から言えば「知る」の対語は「忘れる」とか「知らない」という否定形であるが、ハングルでは「知らない」は否定形ではない動詞として存在する。そのことに関してのみハングルは哲学的な言辞である。しかしこのことが他の全ての動詞に当て嵌まらない限り、例えば日本語よりハングルの方が哲学的な言語である、という判断は演繹され得ないであろう。ある一つの現象を取掛かりに真理として一般化することは、そのような事例に枚挙に暇がない場合のみ適用され得るとは言えよう。 
 あるいは形容詞において「大きい」ことは通常「小さい」ことよりも肯定的であるとされようが、人間の性格や業績や資質といったことを基準に評定する場合、身体が「小さい」こととは概してハンディーを克服して対処する能力や努力として賞賛される場合が多い。
 色や濃淡、頻度、明度といった形容基準をここで実例を挙げてみよう。

黒い_白い①
暗い_明るい②
長い_短い③
固い_柔らかい④
濃い_薄い⑤

ここで注目すべきことは①、②、④、⑤に関しては左の側の形容が「密なこと」であり、右の側の形容が「疎らなこと」であるのに③は「大きい」と「小さい」と同様例外的な物理的な現象であることが了解されよう。あるいは重い、軽いに関しては「重い」ことの方が「密なこと」が多いがただ単に大きければ必然的に重いものとなろう。(またこれは精神的なこととか音楽とかにおいて癒しを求める場合には「軽い」の方に肯定的に捉えられる場合もある。)そういう意味では③のケースと同一なものは「大きい」と「小さい」のみであろう。しかもこの「大きい」と「小さい」や「長い」と「短い」とは「密な」ことはマイナーな方に分がある場合も多い。逆にメジャーな方が「疎らなこと」である場合も多い。それは「広い」、「狭い」にも言えることである。しかしこの場合でもやはり「広い」の方が肯定的である。また「短い」ことの方が肯定的なのはスピード競技において競技時間に関しては肯定的であるが、この場合「速い」と言うことが通常である。また「早い」と「遅い」に関しても前者の方が肯定的である場合も多いが、人間の社会的成功に関してなどに顕著であるが(例えば出世)、いいことが常にいいこと尽くめではない場合も多く見られる。
 また④に関してはそのどちらが肯定的であるかは一概には言えないし、⑤に関しても内容(中身)に関してなら「濃い」の方に軍配があがるが、色彩的美に関しては「薄い」の方が軍配があがることもある。しかし日本語でも「あの人は影が薄い。」というような否定的言辞もある。③は「堅い」となると業務上の評価だと肯定的な場合もあるが、人間性評価においては必ずしも肯定的とばかりは言えない。
 纏めると、まず肯定的言辞は否定的言辞に比べて希望や安堵、期待感や爽快感、信頼感が伴うのに対して、否定的言辞には明らかに失望、落胆、懐疑、挫折感、憐憫の情、憔悴感等が漂う。そういう意味で我々は肯定的感情を伴う肯定的言辞を暗に聞きたい、見たいと願う。あるいは否定的言辞は、ある種悪意がある場合(例えばオリンピックで他国の選手の失敗を願うようなこと。しかしこれは他の悪意とは異なり、許される範囲の罪の少ない悪意であるが)を除いて概ね肯定的言辞よりも忌み嫌われる傾向があるということは特筆しておいて良いと思われる。
 我々人間は記述行為において顕著であるが、言語を意味として受け取り勝ちであり、その意味では表情を忘れがちである。例えばメールの文字そのものにはそれをメッセージとして受容するという事実において初めて感情を抱くのだし、受容した人間が何らかの表情をその時に持つ。しかしメールの文字自体は無表情である。他者の死を告げる文字もそれを言辞を交えて誰かが語る時とは自ずと異なった形式的な伝達でしかない。そこでややもすると陳述内容とか成否とか有無、是非という結果的な観点からのみ言語を考えがちであるが、それを告げる人間のさまざまな感情、つまりその時にそれを告げる人間の表情は極めて意思疎通においては不可欠な要素であるのだ。それを前言語段階に常にある赤ん坊や動物たちは敏感に察知するわけである。すると彼らの存在によって我々は知性とか理性とかの所謂生存維持的な知恵やモラル上の価値規範以前の感情を持っているということを教えられるのである。
 例えば前言語的思考というものはある。理性的に肉親を愛する感情を説いたとしても、それは前理性的な感情を語彙に置き換えているだけであり、それは理性以前の感情であり思考であると言ってよい。今一番したいこともまた前理性的そして前言語的思考である。腹が減ったということに言語的な思念があるとすれば、それは前言語的、身体生理的欲求をただ語彙に置換しているだけのことである。今の自分にとって一番大切なこと・ものもまた実際は前言語的であろう。しかしその中でも前理性的である場合もあるし(健康とか)、そうではない場合もある。(信条、モットー)今の自分にとって一番大切な人というカテゴリーもまた前理性的感情かつ前言語的感情である。サピアは言語を前理性的な行為であると捉えた。私も同感である。理性は前言語的、前理性的な感情や行為、欲求の上に成立しているのである。だからカントの言う定言命法とは、あるいは道徳的法則とか純粋理性とかはあくまで前言語的、前理性的であるものを言語というフィルターを通して感情を価値規範に置き換えた時に生じる倫理的な論理である、ということである。

 もっと解かりやすく考えてみよう。
 例えば「難しい」という言葉を述べる時我々はある具体的な心的な状態を思い浮かべるものではないだろうか?例えば難しい数学の問題を解こうとして頭を捻った時のこととか、人生において難局に局面した時の自分の経験を一瞬想起して語るものではないだろうか?そしてこの語彙を使用する時というのは、「やさしい」とか「簡単な」というような言葉を語る時には朗らかな表情であるのに対して、何か悩み事でもあるのような眉間に一瞬でも皺を寄せて語るものではなかろうか?
 つまり我々はこのように形容語彙というものが、その語彙が表現する感情を、その語彙を使用する時に一瞬でも想起して語る、そういうものではなかろうか?
 そのことは少なくともここで例証している形容語彙を使用するということは、その語彙が意味する事態を、自己にとって受け入れるべきものであるか、そうではなく逆に拒否すべきものであるか、あるいはそのどちらでもないものであるかというような、要するにある対象や事態や事実や現象や真理に遭遇した時に得る感情的な判断、印象といったものを回想したり、現に今ここで感じたり、認知したりしていることの言明である、ということである。私は実はそれらに対する認識というものと、対象、事態、現象、真理に対するものと感情というものを二分することは出来ないのではないか、と常々感じている方の人間である。勿論善悪の判断のようにある意味で理性論的にも倫理規定的にも明快な峻別可能なものもあれば、逆に同じように理性論的にも倫理規定的にもはっきりと峻別不能であるものも多いとも思われる。このように明快に峻別可能であるものに接する時我々が感じる心的な様相と、そうではなく曖昧であるものや、どちらともつかないものに接する時に我々が感じる心的な様相とは幾分異なっていることであろう。それは理解のレヴェルの問題でもあるし、感情的な認識のレヴェルの問題でもある。このことについて少し詳しく考えてみよう。
 形容するのに一般に難しいものの方が実際にこの世界には多いのではないだろうか、ということが私がまずこの対立形容、対語について思い巡らせた時に感じたことなのである。
 私たちは何かはっきりと白黒がつくと思われるものよりも、勿論それは私たち自身の判断(それは主観的な判断である場合もあるが、大体の標準というものはあるであろう。例えば2メートルの身長の人物とは背が凄く高い、とか巨人のようなという形容は、日本人が同じ日本人に対してなされる使用には該当するであろう。)によって形容表現へと対象、事態、事実、現象(これらを一括してこれからは事象と呼ぼう。)を形容する場面で語彙選択(語句選択でもよいが、今後これを一切語彙選択とする。)する時のことであるが、その述定による形容基準として白黒峻別し得ないものの方がより形容努力を要する、つまり多少それを述定する時発語において眉間に皺を寄せて形容語彙を検索する余地のあるものの方が遥かに世界には多く存在する筈である。それは我々がまだまだ未知のものを抱えて生きていると言うことにも関係がある。しかしこのように形容語彙が見つかり難いものの方がより、形容必要性から詳細さを要求される、ということも言い得るであろう。
 つまり端的に言えば、形容しやすいものとは一概にその特徴が一瞬にして判明し得るようなものである。ある誰にでも容易に了解し得るような形容基準、大小であるとか、長短であるとか、そういう誰の目から見てもそれを形容する場合に他と峻別するのに必要な形容基準が見出しやすいものとは格別の形容努力を要しない。
 しかしこれとは逆にかなり明確なイメージはあるのに、語彙的には形容し難いものというものはある。形状的にはその同じ種類のものに比して大きくも小さくでもないもの・ことは、そういう一般的な形容詞では述定し難い。それは長くも短くもないのなら、それも適切な基準とは言ない。人物の特徴記述による特定とかのケースにおいて我々は往々にしてこの種の形容基準が見出しえないことがある。その顕著な例は「これといった特徴のない人物」とか「無個性的な人物」とかである。しかしこういう風に形容語彙が容易に見つからないからと言って、そのものが無個性的である(そのように形容してさえ)とは限らない。あるいは印象的ではないとも言い切れない。
 例えばその如実なケースとして想定され得るのは、今までに我々自身が個別なケースとしてでも誰にとっても、見たこともないし、聞いたこともない要するに未知のもの・こと、不可思議なもの・こと、あるいはそのもの・ことに関して余りにも衝撃的であるが故に(所謂極端な場合にはPTSDを喚起し得る可能性さえ考えられるような)形容語彙が見つからないというようなケースも考えられる。
 我々は哲学的な設問において容易に形容基準を、見出し得ないものを一括ただそれらに対する形容基準が見出せないからと言って、つまり一瞬の判断で形容表現することが躊躇せざるを得ないからと言って、そういうものを明快ではないもの、あるいは形容基準に適合したものではないものとして大小とか長短というような形容しやすい対立概念として二分法に適合しないものとして無視してきた、あるいは保留にしてそのまま手付かずにしてきた、とは言えまいか?対立概念として二分法に採用出来ないものの方が実はこの世界にはずっと多い。しかし大小や長短というような基本的な対立概念というものは物事を理解する際にしやすいという理由から我々はそういった事項を思考実験的にも指示、特定、述定例としてしばしば採用してきたのである。二値論理的認識方法とは実はこのような形容しやすい二分法であるからこそ認識方策としての合理性として我々が採用してきた、というのは事実である。
 しかし繰り返すようであるが、我々の日常生活を顧みてみると、なるべく明快に意志決定し、行動を誘引する為に、というのも我々は一々の行為を逡巡していたら社会生活に支障を来たすので、そういった行動パターンが滞ることを未然に防止し、人生の活力を削ぐようなエネルギー・ロスを回避しつつ、躊躇的時間を少なくする為に我々は日常的な些細な事項に関しては、迷わずに行動するように、余分なことを考えずに行動するように心掛けている。(トイレに行く度に排泄するとはどういうことか、などと考えていては生活さもがままならなくなる。)あるいはそういう風に日常的な些細は合理的に処理して考え込まないように習慣化している。
 しかしよく考え出すと今度は、逆に我々がただ単に形容語彙を見つからないような難問は意図的に忌避することを通して不問に付しているに過ぎないということもまた判明する。
 例えば語句や語彙にもよくよく思い返してみると意図的に深くは追求しないように心掛け、安易に一括してその他のものとして認識しているものというものは案外多いということを思い当たる節はないであろうか?あるいはそれらは一瞬にして形容出来ないもの自体として実は極めて多様であるどころか無尽蔵であるのにもかかわらず一々考えてもみないものが満ち溢れているとは言えないだろうか?
 例えば殺風景という言葉がある。これは英語ではunimpressive location(landscape)とかnot impressive~とか表現出来るものである。あるいはless to missというような表現も可能であろう。しかしこの殺風景という概念はただ単に形容基準が容易に見出せない場合の付け焼刃的な処置として我々が勝手にそれらを一括して名付けた便宜的な形容にしか過ぎない。この場合には実は個々のケースにおいては甚だ無限なる個別性があるに違いない。殺風景な風景にも色々ある。シベリヤの平原も、サハラ砂漠も、宇宙も殺風景と言えばそう言えなくもないが、その殺風景さの性格や性質は皆固有のものであり、実質上は無限である。無限な無表情さの種類があるのだ。
 あるいは我々は実際に言語行為においてはあまりにも衝撃を受け(飽きれるということも含む)、あるいはそのようなことが契機で失語症的な状況に陥り、それが為に形容語彙を咄嗟に思いつかないというようなことも大いにあり得るのだ。そういう時はただ「凄かった」とか「まあまあだった」とか「なんて言えばいいものかねえ」とか言うのである。つまり述定において我々はこのように形容語彙選択に躊躇せざるを得ないようなケースというものの方が実は多く、それらは一括して何らかの言語行為における取り繕いをせざるを得ない。そういうケースにおける適用可能な好例として「無個性的な」とか「印象が薄い」とか「殺風景」とかいう表現、述語が与えられるのであるが、これらは実は極めて印象的なもの・ことたちなのである。ただ形容基準が見つからないというだけで我々はそれらを真に無個性的にしてきた、そういう風に認識してきた、という哲学上の歴史的事実がある。実はここに多値論理性への推移の必要性が我々に求められていることが立証されるのである。
 ここでサピアの次の一文が想起される。
「思想をもっぱらそれ自体のために定義する必要が切実になるにつれて、語はますます手段として不適切なものになってくる。したがって、数学者や記号論理学者が、なぜ語を捨てて。それぞれ厳密に単一の価値をもった記号の助けを借りて、おのれの思想を構築せざるを得ないのかが、容易に理解されるのである。」(「言語」60ページより)
 数学者や記号論理学者の代わりにここに芸術家、とりわけ画家を入れても同様のことが言えるであろう。あるいは他のあらゆる演劇、舞踏、ダンスや体操、フィギュア・スケートとかの創造的な身体行為遂行者においても、スポーツ選手やギャンブラーにおいても、その興奮には美創造にかかわることで得られる爽快感とか感動とかスリルというような語彙しか一応見当たらないが、実際は形容し難いケースというものの方がより多く、そういう形容不可能性領域への邁進が彼らの職業的、行為選択的な動機付けであるかも知れない。しかしそれにしても我々はテレビやヴィデオ、DVD等によってリアルタイムでそれらを見ることが可能であったり、再生したりすることが容易であったりする現代社会ではより形容語彙選択という必要性の消滅という事態も手伝って我々は極めて言語表現における危機的状況に立たされているという風にも捉えられる。しかしだからと言って我々にとって言語行為が必要でなくなった、とは誰にしも決して言えないであろう。語はますます手段として不適切となればなるほど語彙を創出する必要性は生じるし、また言語行為において言語表現的な認識必要性もより要求されるようになってくるのである。

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