Sunday, October 25, 2009

〔顔と表情の意味〕3、述定の心的様相 表情の述定

 述定を言語的に捉えてきたが、もう一つのシステムが表情であろう。
 人間がいつ頃から着衣する習慣を身につけたかは依然として謎のままであるが、もし人間が着衣することなく裸でいてそのまま進化していったのなら、今日ほど顔とその表情を通した感情記述という信号性は発達しなかったことであろう。しかし我々はチンパンジー等人間以外の霊長類にはない類稀な表情筋という固有のシステムによって表情で感情や意図を外在的に明示し、それを識別し得る意思疎通能力を身につけてきた。
 人間が性的欲求(種族保存本能)を抑制することで逆に内的感情の襞を進化させた、とも言い得る。仮に繁殖行為のみを優先させるのなら、顔の表情はさして大きな意味を持つことはなかったであろう。繁殖行為においてどの配偶者を選択するかという優良遺伝子の選択という雌の生物進化上の必然的意義において、人間は性的能力の優劣を着衣で隠蔽することで、直示を避け、逆に表情によって意思表示をすることが、仕事仲間として意思疎通するべく同性のみではなく異性をも繁殖行為へと直結し得る家庭構築の為に雌を惹き付ける為に奉仕されるようになってゆく。それは生存戦略的な間接的性的能力の誇示である。つまり表情は性的抑制システムの獲得と引き換えに人間が進化させた理性論的判断による対他的な意思表示システムに他ならない。しかしここでもまた前言語的思念が必然的に言語を通して顕現させる言語的行為、つまり倫理的感情(これは前言語的感情の一つであるが、これに言語的思考が加わることによって倫理が概念上の「倫理」である<法的秩序>となったり、常識的モラルへと昇華されるのだ。)さえも統語的能力によって自己と他者、自己と社会といったレヴェルで概念的に対他親和的感情を関係付け、感情そのものの意味を位置付けることを我々はしてきたのである。
 だからこうも言えよう。常識、モラル、愛情があるのなら人間には当然悪意もある。悪意の存在は人間に嘘をつかせる。従って真意をひたすら隠蔽し表情をすら偽装し得る。
 ここに今表情による表示によって真意を表出することにおいて誠実性に欠ける、つまり他者に対して接する時に習慣的に偽装表情で臨む(相手を騙そうとしているのに、誠実さを装うような)、そういう生存戦略を採る人間がいたとしよう。
 この人間は得てして怒りの感情を表には一切出さずにいて、常に笑顔で他者に接する。信頼してはいない人間に対してさえ、さも信頼しているかのような振る舞いを常に採るとしよう。しかし全ての共同体成員を信頼することなど出来ようか?真意レヴェルからも社会的構造における可能性レヴェルから言ってもそれは不可能以外の何物でもない。
 しかし今この人間をCとしよう。CはAともBとも友愛的に接する。しかしAとBは利害関係的に対立しているとする。このAとBの利害の一致不可能性において、AとB双方を同時に信頼しつつ更に同時に両方に対して利益を得ることが可能であろうか?しかしCはAからもBからも報酬を得ようとする。つまりCはAに対してはBを裏切るべくBの仲間を装うAのスパイとして振る舞い、逆にBに対してはAを裏切るべくAの仲間を装うBのスパイとして振る舞うとしよう。しかしやがてAもBもCの採る自己にのみ真意を表明しているかの如き偽装が漁夫の利を得る為にのみ徴用されていることに対して覚醒する。AとBはCを端的に警戒し出す。AもBもがCを警戒し出したことによって、Cは真意を表明する為の笑顔の偽装表情が効力を失っていることにやがて気付く。その時真意で笑顔を示しても最早その表示行為自体が信頼されないという事態を知る。そこでCは真意を表明することだけに表情表示をしてこなかった、つまり誠実性条件を満たしてこなかったという事実において、表情を真意表出(楽しい時にだけ楽しい表情をし、苦しい時にだけ苦しい表情をし、怒っている時にだけ怒りの表情をし、喜んだ時にだけ喜びの表情をし、悲しい時にだけ悲しみの表情をするということ、つまり素直に表情を示すこと)の手段としてのみ徴用してこなかったこと、表情の意思疎通上の作用を軽んじてきたことで、逆に真意表示の機能を果たせなくなったことを、つまり自分の意思表示そのものが信頼されなくなったことを知るに至るのだ。このような結果論的な負け組の存在や日常的に偽装して利益を貪ることで竹箆返しを受けるような事態を経験的に学んだ人類は、表情というものは概して偽装だけに供すべきでは決してない(時として真意の完全なる表出は羞恥を催すこととなるから、真意隠蔽の為に人間がする行為とは表情的な偽装である。例えば異性に対して好感情を抱く思春期の少年少女たちはこの種の羞恥を通して真意を悟られまいとするが、羞恥自体はそう容易く隠しおおせるものではない。)という教訓を得、表情を隠蔽するような覆面性(笑顔だけで常に接するような人間も当然この内に入る。中島義道もこのことを指摘している。「私が信用しない10のタイプの人間」)が結局その人間の真意を推し量る唯一のバロメーターを隠蔽することで喚起される弊害を回避させる為に、着衣しても顔だけは露出させることを習慣化させていったのではなかろうか?人間は顔を露出させることで実は次のように訴えているのである。
「私は表情だけは偽装することはしません。着衣して性的欲求を隠蔽しているように顔を偽装表情で常時覆うことは、私自身の真意表出の手段を失うことを意味するからです。私は真意を表出するのに最適なこの顔を隠蔽することは致しません。ですから私を信用して下さい。私をこの共同体の成員であることを認めて下さい。」
 このような意思表示の述定性として顔だけは着衣しないことの形而上的意味があるのだ。顔はAやBやSの人物間の識別をする(つまりもし仮に彼(女)らの顔の形や大きさがほぼ同じであってさえも、個々のパーツのみならず骨格や表情の示し方(全体的に利用した表情)によって識別する)手段ばかりではないのである。
 人間の表情信号説はモリスも指摘している。その最も顕著なものが彼が指摘する「赤ん坊が母親に示す微笑みの表情である。デズモンド・モリスの論述を以下に抜粋してみよう。

「七ヶ月になると、赤ん坊は完全に母親に刷りこみされている。母親は。今やどうなろうとも、赤ん坊の残りの人生の中に母親のイメージを残すであろう。カモの雛は、母親のうしろについていく行動を通じてこの刷りこみを獲得し、ヒトニザルの赤ん坊は母親にしがみつくことによって獲得する。われわれはこの決定的なきずなを、ほほえみ反応を通して獲得するのである。視覚的な刺激としてみれば、ほほえみの特有の形は主として口のすみをそり返すという単純な動作にある。口がいくら開かれ、唇が後方へひかれる点は、恐れの表情と同じであるが、口のすみがそり返る動作がつけくわえられることによって、表現の性質が根本的にちがってくる。このほほえみの発生は、次にもう一つのまったく対照的な表情_しかめっ面_を生じる可能性をもたらした。ほほえみとは正反対に、口をぴっちり閉じることによって、反微笑の信号が可能となる。ちょうど泣くことから笑いが進化し、笑いからほほえみが進化したように、親愛の表情は、振子を逆に振ることによって敵意ある表情へと進化した。
(中略)成人はただ唇をすこしひねるだけでこの気分を伝えることがきでるが、赤ん坊はそれにもっと多くのものをつけ加える。ほほえみが最高潮に達すると、赤ん坊は肢でけり、腕を動かし、両手を刺激の方向へ向けて伸ばして動かし、何かぶつぶついう声を発し、顎を後方にそらせて、おとがいを前のほうにつきだし、胴を前へ倒したりわきへねじったりし、ときには鼻すじにしわをよせる。鼻と口の両側にあるしわが目立ってきてわずかに舌を出すことがある。これらさまざまな体の動きは、それぞれ赤ん坊が母親と接触を保とうとする闘いを意味するのではないだろうか。おそらく赤ん坊はその不器用な体で、祖先の霊長類のしがみつき反応の名残りを示しているのであろう。
(中略)ほほえみは相互的な信号である。赤ん坊が母親にほほえみかければ、母親は同じような信号で反応する。こうして互いに報酬を与えあい、両者の結びつきは相互の方向に強められる。これは自明なことと思われるが、そこにわながあるかもしれない、一部の母親は、いらいらしているとき、心配事があるとき、あるいは赤ん坊のきげんをそこねたときに、無理にほほえむことによってそのような気分をかくそうとする。かの女たちはこのみせかけのほほえみによって、赤ん坊の気分を乱すことを避けようとするのだが、じっさいこのトリックがむしろ有害な結果をもたらすことがある。(中略)母親の気分に関して赤ん坊をごまかすことはほとんど不可能である。ごく幼い人間は、母親の動揺や落着きという微妙な信号に対してするどく反応するもののようである。記号による文化的コミュニケーションという巨大な機構にわれわれがはまりこんでしまう前の、前言語的段階においては、われわれの赤ん坊は、われわれがのちに必要とするよりもはるかに多く、微妙な動き、姿勢の変化、声の調子などにたよっている。他の種では、この点はとくに発達している。数の計算ができたので有名な"賢馬ハンス"の驚くべき能力は、じっさいには調教師のささいな姿勢の変化に対する鋭敏な反応能力にもとづくものであった。足し算を求められると、ハンスはちょうど正しい回数だけ足で床をたたくのだった。たとえ調教師が同じ部屋にいなくて、誰か他の人がかわっても、かれはちゃんと答えを出した。というのは、ウマが正しい数だけ床をたたいたとき、誰でも体をわずかに体を緊張させるからである。たしかに、われわれもみな、たとえ成人になったのちでもこの能力をもっている(うらない師は自分がいい線をいっているかどうかをこれで判定する)。しかし前言語段階にある赤ん坊では、とくにこの能力が発達しているらしい。母親が緊張し、動揺していれば、いかにかくそうとしても、それは赤ん坊に伝わってしまう。そして、このときかの女が強くほほえんだりすると、それは赤ん坊をごまかすどころか、混乱させてしまうだけである。矛盾する二つのメッセージが伝達されているからである。もしこのようなことが何回も繰返しおこなわれると、赤ん坊に永久的に障害を与え、大きくなってから社会的に接触し適応してゆく上で、非常な困難をひきおこすことがある。(「裸のサル」119~121ページより)

 人間の赤ん坊のほほえみとは人間がその一生の内の極初期に採る種として最初に接する他者の意識を釘付けにするための記号であり、最初の自己主張である。それは故に自我形成の上で重要な意思疎通のサインであり、意志伝達欲求の表明である。顔というものが嘘をつくことが出来ない、顔で嘘を付くことがモラル上であまりいいこととは見做されない、故にそう安易にはそれが出来ないからこそ、我々は通常一緒にいて楽しくない人間とは敬遠するように心掛ける。そうではなく顔で偽装することが容易く、あるいはそのような偽装表情を作ることが寛大に容認されているということが社会的通念であるなら、我々は婉曲な表現も信頼感喪失も経験せずに済ませられるかも知れない。しかし実際はそうではない。我々は偽装表情して友好的であるような印象を結果的に他者に与えたとしても、その好感情を確認出来たとする他者に対して非常なる失意を齎すことを重々承知しているからこそ、偽装表情を採ることは出来る限り避けたいと願うものなのだ。
 また後半のモリスの指摘は本章の主張と全く符合する。というのも動物は自分の悪口を言われると敏感にそれを察知する。人間がある陳述をする時に、その内容がポジティヴである場合と、そうではなくネガティヴな場合とでは明らかに声の調子(トーン)が異なっているのである。動物は人間のように言語を意味論的には決して理解し得ない。言わばモリスが指摘しているように赤ん坊同様全ての動物は一生の間中モリスの言葉を借りるなら前言語段階にあると言ってよい。そこで微妙なる褒め言葉と貶し言葉のニュアンスの相違を、あるいはそれを語る時の人間の表情のニュアンスの相違を識別するのである。(我々は肯定的な言辞の時とは違って否定的な言辞の時には顔を顰めて話すものなのだ。あるいは否定的記述を目にするとやはり顔の表情を曇らせるものである。)だからこそ動物は自分に向けられたネガティヴな言辞には敏感に察知するのだ。私の家で以前飼っていた猫は多少口臭が強かった。そのことを飼い主である我々が言及すると必ず我々の鼻を噛んだものだった。

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