Wednesday, October 7, 2009

〔顔と表情の意味〕<社会という場で考えられること>

 社会という場では貧乏な人、富裕な人、社会的地位の高い人、そうではない人という風にさまざまな社会的な階層が成立している。そこでは年齢とか性別とか職業とか色々のカテゴリーが存在し、そのカテゴリー毎にさまざまな考え方があり、一様に一般人というような区分けは意味をなさない。しかし同時に我々はそのような区分けそのものが実は社会によって強制されたものであるという思念に囚われることはないだろうか?つまりそのように思わなければならないと勝手に自分で決め込み、やがてそれを社会が押し付けるステレオタイプのように思い込む。しかしよく言うように他人がある人物に対して言うほどその本人というものは、その社会全体が規定する現実にあるわけでない場合の方が多い。社会自体にもそういうところはある。我々は勝手に世間というものを作るのだ。
 あの人は不幸だとか、あの人は幸せそうだとかといった他者の規定は本人からすれば、何の意味のない勝手な想像である場合も多い。例えば人によっては何らかの犯罪とか天災に見舞われ命を落とす人も含めて、寿命にもさまざまな違いがあり、長生きする人は一般的に短命な人よりも幸せであると言われる。しかし本当にそうなのだろうか?
 短い生涯を送った人が皆不幸だったのだろうか?あるいは長寿を全うした人が皆幸せだったのだろうか?あるいは富裕な人が皆幸せで、貧困な人が皆不幸なのだろうか?
 あるいは多くの他者に愛される人間が皆幸せで、友人の少ない人間は本当に寂しいのだろうか?そのことに一つの定義を与えることは不可能なのではないか?
 しかし世で通用する哲学には色々の哲学上の定義のようなものが存在する。その枠組みに読者を誘うように、その枠組みに対して共鳴し得ない人間にはそれ以上読み進めて貰いたくはないと訴えているかのようにである。しかしその事実こそが哲学の正体でもあると私は考える。
 例えば職業としての哲学者というものは確かに世間ではある。しかし真の哲学とはそのような職業的な分類ではどうしようもない何らかのメッセージ性があると思われる。そのことは文学とか芸術とか、あるいは社会的な福祉活動とかボランティア、あるいは平和運動などにも共通して言える。彼等は決して職業としてある行為を選択したのではない(職業の選択がいけないと言っているのではない)。何らかの人生における信念に基づいて行動していると言えはしまいか?
 だから必然的にそのような語らいとは如何に客観的に真理を追究しているようでいて、極めて主観的なものに過ぎず、それらには誤りというものも当然含まれる。しかしその誤りとかの欠点をも全て含めたものこそがここで私が言おうとしている哲学の本質であると私は言いたい。
 それでは愛というものはどうだろうか?愛と言うものの実態というものは案外誰しもその答えを一言で言い表すことが困難と感じはしないだろうか?愛は継続であると言う人もいる。しかしただ継続するだけのことなら案外簡単なことではないだろうか?ある時には何かを断念したり、今までしたことがないことを始めたり、人に対しての接し方を換えてみたり、要するに試行錯誤の中から結果的に、私はあの人を愛した(それは家族でもいいし、友人でもいい)とか愛さなかったとか言うことが出来るのではないだろうか?
 愛とは要するに「こうすれば、このような行為で臨めば愛になる」というようなマニュアルは存在しないものなのではないだろうか?あるいはこう言ってもよい。そのように計画的に行え、行うことであるなら打算でしかないとは言えまいか?
 でもそのようなことを問うのなら宗教というものがあるではないか、という意見が聞こえてきそうである。宗教というものと哲学というものの違いについて考えてみよう。
 尤もそのように宗教はここからここまで、というように何も厳密に区分けする必要はないという意見もあるだろう。事実近代以降にもマルティン・ブーバーといった哲学と宗教の境界上に位置した人もいた。しかし実際上はかなり昔から我々の先人はそのように思想、哲学、宗教というものを分けて考えてもきたのである。例えば20世紀の哲学者で言えばエイヤーがそうである。彼は哲学と密接であった形而上学と哲学と自然科学を厳密に区分けし、定義しようとした。それは誰でも一度は聴いたことがある名前の哲学者カントもそうであった。要するに端的に言えば、哲学は宗教とか思想と違い、そのように区分けすること、厳密に言語上で、その相違について述べる行為であるとも言えるのだ。勿論思想には思想の言語があるし、宗教には宗教の言語がある。しかし哲学での言語への問いは、哲学という得体の知れない分野自体とは何なのかという問いを離れては存在し得ないものなのだ。そのためには宗教、思想、芸術、政治、ビジネス等全ての分野(学問、技術、生活必需的な人間社会の存在)が哲学に対する定義のためにかかわってくる。まずそのようなものを哲学と呼ぼう。まだ結論が出ているわけではないが、とにかく哲学というものは、それがどういうものかという問いが不可欠なものであるとだけは言えよう。
 ではなぜそのように私たちは哲学において、言語的に説明する必要があるのだろうか?それは我々が何かものを考える時、言語的に思考する存在だからである。思想というものはその語られた言葉は実践のためにある。しかし哲学ではその語られた言葉は、考えるためにあるということも言えるだろう。
 つまりこういうことである。思想ではそこで語られる言葉は何か別のことをするためのものである。しかし哲学では語られた言葉は考えるためのものである、ということである。では宗教というものにおいて語られる言葉とは一体何なのだろうか?それはある同一の信仰を持つ者同士の連帯ではないだろうか?勿論連帯と言うものは思想にもあるであろうし、哲学にもあるかも知れないが、思想の場合には実践が伴うので、実践能力というものが極めて重要に作用しその思想にかかわる人間の価値を決める。しかし宗教ではおよそその能力とは別個に、ある共通のことを信じる仲間同士の心の連帯というものが重要である。そして哲学とはそこに求められる連帯というものは疑問を持つ者同士、問いかけ合う者同士ということになるであろう。そのような違いが微妙に哲学と宗教と思想にはあると思われるが実際それらは常に連動しながら発展してきたし、今もそうであると思われる。
 では科学とか技術といったレヴェルからそれらが哲学とどういう関係があるのかを見てゆこう。
 私たちは何かものを考える時、言語的な思考をする。その際には我々が今まで学校とかで習った言葉の力が思いの他強く働くということについて誰しも疑問はないであろう。しかしよく考えてみると、言葉とか言語といったものもまた日常我々が使用する鉛筆とか挟みとか歯ブラシ同様、極めて大切な我々の道具であり、その言葉の使用とは、何かを他者に伝達することであり、それは家族同士、友人、同僚、ビジネス相手誰であろうとも一つの技術である。だから言語自体の意味、在り方を問うこともまた哲学となる。
 あるいは我々は生きているのだから、自己の自覚とか、意識といったものも持っている。それらについて問うこともまた哲学であると言える。あるいは我々自身の社会的な行動に対して問うこともまた哲学の一部であるし、あるいは我々自身が社会行動する際に必然的に持つ倫理的な価値に関して考えることもまた哲学の一部であると言える。そして科学というものがあるけれど、科学というものの思考方法とはどのようなものなのか、あるいは科学で最も強い武器でもある数学とはどのようなものなのかということについて問うこともまた哲学である。
 してみると哲学というものの範囲というものが極めて広範なものであると理解して頂けたであろうか?そしてある程度結論的に言えば、社会という場で我々が哲学に求め得るものとしては、そういった色々な行動とか技術、思考方法自体の正体を求めて問い続けることそのものが哲学である、ということである。
  
 ちょっと卑近な例を挙げて、日常的なレヴェルから哲学のあり方について考えてみよう。我々が日常で感じることであるが、行動することと意志ということについて考えてみよう。
 ここにインターネットのホームページの制作会社の社員がいるとしよう。彼はこの会社に入社して一年、しかし学生の頃からパソコンのスクールに通ったりして、同好の仲間たちと切磋琢磨し合ったお陰でこの会社に勤めることが出来た。しかし何か物足りない。もっと一流の技術を持った集団に関わりたい。でも今の会社の給料は悪くない。そこで彼は悩む。というのもつい最近彼女が出来たばかりだ。彼女は彼との結婚を考えている。彼は実は今の会社には内緒で別の会社の入社試験を受け受かったのだ。彼女とは試験を受けた後に知り合った。今の会社ではかなりなレヴェルでいられるが、もし受かった会社に移ったら、当分は今の給料よりもずっと低い給料に甘んじなければならないし、ライヴァルたちも今の会社よりずっと多い。必ずしも勝ち組として残れるという保証はどこにもない。彼はどうしたらよいのだろうか?今の会社で粘ってこれから入ってくる新入社員たちの希望の星とか指導力ある先輩か上司になってゆくか、それとも成功すれば今の数倍以上の給料が保証されるレヴェルの数段上の会社に移って自分の輝かしい将来に賭けてみるべきなのであろうか?
 このような二つの道が今現在において眼前に分岐しているケースというものは人生には何度かある。こういった際の決断というものは日常的な考えというものが役に立つのかな、とふと疑問にさえ思われる状況とは言えまいか?このような際の意志決定を合理化するものというのは実際経験的なことなのだろうか?それとも経験を超えることなのだろうか?
 あるいは次のようなケースを考えてみよう。
 ある壮年の女性がいる。彼女は長く夫との生活において専業主婦であった。しかし彼女は夫の仕事の内助の功としての役割に徹し、実は若い頃からビジネスの夢があったのだが、夫は高給をとっていたのだが、生活設計とかそういうことは妻任せであり、貯金するとかそういう計画性がないタイプの人であったために彼女は子供たちのために夫の無頓着を尻目に必死で貯金したり、株に変えたりしていた。彼女は子供を夫と共に育て終え、子供が自立し、結婚した頃、まだ老人になるには多少期間がある年齢で未亡人になった。そこから彼女の昔抱いた夢、ビジネスの夢が蘇ってきた。そしてそれまで持っていた株を有効に活用し、夫の残した財産で買ったマンションに一人で住み、やがて株で一儲けする。かなりな財産を築いた(大金というものは若くして手にした人間には一晩で使い切ることも不可能ではない。生活上の切実さから言えば、大金獲得というものは本質的に若者にとっては大した意味がない)若い頃から苦労して年をとってやっと勝ち取った経済的成功者にとっては大金というものは浪費することの出来ない貴重なものである。しかし年齢もかなりで、それほどの大金を全部自分で使いきるには体力というものがついてゆかない。彼女には二人息子がおり、次男には二人の子供がおり、長男は不遇で独身である。彼女は資産を経済的に成功している息子と、不遇な息子とに残すことを考える。しかしそんなある日彼女がパソコンを使用して個人投資家としての活動をしてきた際に、相談役となってくれていた投資信託会社の人間が、絶好のビジネス・チャンスを彼女に伝えてきた。彼女はビジネスの夢も諦めきれない。やっと掴んだチャンスである。会社を興すことも不可能ではないのだ。彼女は残った体力の全てを振り絞ってビジネスに邁進すべきなのだろうか?それとも彼女の愛する二人の息子に遺産として全部残すべきなのだろうか?誘いを受けてたつべきであろうか?それとも最早かなりの財をなしているのだから、これ以上の欲を捨てて、息子たちに何とか折り合いをつけて配分して財産を残すことを選択すべきであろうか?
 先述の若いホームページ制作会社の社員は、もうすぐ合格した会社の入社に関して手続きをする期日が近づいている。もう一人の老齢に達した個人投資家もまた返事をする期日が近づいている。このような際一体彼等にとってそれまでの人生経験というものが意志決定に役に立つのであろうか?というのも我々の人生においてそのような大事、重要な分岐点というものはそう滅多にあるものではない。するとそういう重大事態に接すること自体実はどのような年齢であろうとも、いざという時にはそれまでの経験などというものは何の役にも立たないのではないか、という思念さえ湧いてくる。
 彼等の意志を最終的に決するものは一体何なのだろうか?
 例えば戦場に初めて立たされた一兵卒の戦士にとって敵を打ち倒した経験など勿論ない。今日彼は初めて最前線に立たされた。そんな時、目前に自分へ銃口を向けた敵兵がいる。さて彼はどうするべきなのか?彼は何も好き好んで敵兵に対峙しているわけではない。しかし彼はどうにかこの緊急な状況に対処してゆかねばならない。しかも彼は行動の全てを一瞬の判断に委ねられている。
 経験というものはある意味では継続的な単調な仕事においては役に立つこともあるだろう。しかし基本的に人生というものは何が起こるか分からない。仕事にしても、例えば医師にとってある患者は、他のどの患者とも異なった体質と遺伝性を保有する唯一無二のケースなのである。それ以前に診た別の患者と同じ病状であっても、異なった体質とか遺伝的傾向性があるのだから、それに応じて異なった処方を下すべきである。あるいはサラ金の借金に負われた家族が今日まさに取り立てに来る借金取りに対して、返済する工面が立たずに夜逃げしようと試みている時に、彼等にそれまでの人生の経験の何が役にたつと言うのだろう?
 本質的に人間にとって行動と意志というものはそう単純に定義し得るような性質のものでもないし、また何らかの考えを持つということがその考えに沿った行動へと直結し得るとも限らない。またじっくり時間をかけて考えた際に、最も頻繁に現れた思念に従っていざという時に、その通りに行動出来るわけでもない。あるいはじっくり考えたからと言って、理性的な判断が必ずしもし得るとは限らない。と言って勿論何も考えないでよい、あるいは考えない方がよいとも言えない。
 結局のところ我々は何にせよ、咄嗟の判断でなした行動を、事後的に「結果的に私はああしたのだから、私の意志というものはああだったのだ。」と判断しているのだ。要するにどんなに時間をかけて考え抜いたとしても、最終的には行動しなければならない時に行動したことが、その人間にとっての意志であり、かつ結果的にそういう行動へと直結し得るように考え抜いたのだ、と判断することとなるのである。
哲学の世界では何か行動する時に、自己を踏み切らせるものを意志決定の合理化とか判断の合理化とか合理的判断と呼ぶ。また何かに心を奪われることや、そこまで行かなくても何かを心に留め思念すること、何かに対して意識することとか、関心を持つことを命題的態度と呼ぶ。
 ここで一つ断っておかなければならないことがある。私は経験という語彙を使用する際、先述の例において、ただ単に人生経験のことを意味するように使用してきたが、哲学で通常使用するところの経験というものは、哲学で通常分析的という言い方で呼ぶものと相反するところの、綜合的とほぼ同義の、要するに専門学術的な使用の仕方であるということである。哲学で通常使用する経験的とは、ただ単に何かの技術や知識を習慣的に身に付けることだけではなく、哲学で言うところのア・プリオリ(先験的な、演繹的な)ではなく、ア・ポステリオリ(後天的な、帰納的な)であることを言うのであるが、敢えて私はそのことを理解しやすいように人生経験に照応させて使用してきた。本来経験的であるとは、帰納的であることを意味し、悟性的な立証を必要とするもののことを言うのである。
 哲学の世界でこのことを明確に定義付けたのは紛れもなくカントであった。カントは分析的と綜合的という二分化を試みたが、通常我々が哲学とは関係なく分析的と言う場合、戦後のアメリカの代表的哲学者であるソール・クリプキが自著「名指しと必然性」において語っているように、ア・ポステリオリのア・プリオリのことを言っているのである。それは予めそのものの真理として確定したものであるにもかかわらず、我々にはなかなかその本質が見え難くなっていることに対して一つ一つ解き解しながらその本質を見極めてゆくという行為やその方法の末にア・プリオリとされるものについて言及した語彙であると思われる。「分析する」ということはそのように哲学外的には、限定されているが、哲学においてはもっと広範なものとして、例えば何の検証を必要としない場合も含まれているのだ、ということを明言しておきたい。

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