Wednesday, October 7, 2009

序、哲学とは何か

 本稿は哲学の専門論文ではない。しかし専門で哲学を学ぶ読者にも、それなりの問題提起をしており、この論を読むことで得るものは何もないという事態だけは避け得るように書かれてある(少なくとも私はそのように心掛けた)。
 私は専門の哲学を大学で学んだ人間ではないので、哲学に関する権威ある学位なども一切持ってはいない。しかしだからこそ理解出来る部分、哲学というものを内側からではなく外側から一般読者と理解を共有し得る立場にあると心得てもいる。というのも現代の哲学には広範囲の学問や思想とのかかわりがあり、例えば一冊の哲学書において登場する人物や引用されるテクストも、例を挙げれば、精神分析、心理学といった哲学と一般的に馴染みの深いものから言語学、社会学、ある時には経済学、統計学、生物学が、古典的な意味合いで馴染みの深い数学、医学・生理学は勿論、最近では映画や美術、文学といったものも頻繁に登場する。しかしどれも哲学の周辺に位置する学問やジャンルは学問としての思想と捉えればよいと思う。哲学と思想とはどう違うのかということを論じだしたら、それだけで一冊の本が出来上がるくらいの分量になるがそうもしてはいられない。本論は一般的には忙しいビジネスマンに向けて書かれているから、大急ぎで何らかの理解を得てもらうように心掛けねばならない。要する本論は哲学というものが現代に生きる人間に対してどのような役割を持っているかをダイジェストとして示したものである。そのために、哲学を取り巻く状況とか社会的な様相をも盛り込み生きてゆく上で何らかの指針を見出す手伝いとなるように心掛けた。私の考えも随所に盛り込み何らかの問題提起をしたいと思う。
 現実世界の現実生活の上で我々は、貧乏に苦しみ、借金返済に追われたり、色々の困難な状況に生きる生活者も多いことであろう。しかしどのような金持ちであろうと、どのような貧乏人であろうと、等しく哲学に接する権利がある。そして幸福というものとは決して満たされた生活でもなければ、貧困な生活でもなく、心の有り様であるということをまず言っておきたい。生活の有り様の全てはそこから出発する。
 そのようなわけだから、本論を目にした読者に言いたいのだが、本論は裕福な読者が教養を高めるためのガイドと思って貰っても困るし、かつ貧困に喘ぐ読者のための励ましのものと思って貰っても困る。要するにそのような位相とかレヴェルのテクストというものは往々にして何も伝えないと私は考える者である。そのことさえ了解して頂けさえすればどなたに本論を読んで頂いてもそれなりに何かは感じ取って貰えるのではないだろうか、と私は考えている。
 科学哲学者のダニエル・デネットは自著「ダーウィンの危険な思想」で序説からいきなり次のような叙述で読者に警告を発する。
「この書物は、したがって、配慮するに値する人生のただ一つの意味は、それを検討する私たちの最善の努力に耐え得るような意味だということに同意する人のためのものである。そうでない人は今すぐ閉じてそっと立ち去られるように忠告しておく。」
 このダニエル・デネットという人は現代を代表する哲学者の一人であるが、敵も多く、彼はギルバート・ライルという哲学者の弟子であり、かつドナルド・デヴィッドソンという哲学者にも教えを乞うている。私はそこまでは言わない。しかしどこかこのデネットの言うことには真理があると私は思っているのである。まずはそこら辺から考えていってみよう。

No comments:

Post a Comment