Sunday, October 18, 2009

〔顔と表情の意味〕2、法の遵守 合わせる

「(前略)かかる経験は、共同的に超越される対象と、私の身体をとりまくもろもろの身体とについての二重の対象化的把握によって動機づけられている、と言った方がいいであろう。特に私が他の人々とともに或る共同のリズムのうちに拘束されていて、私がこのリズムを生じさせるのに寄与しているという事実は、私が一つの「主観‐われわれ」のうちに拘束された者として私をとらえるように、ことさら私をそそのかす作業の意味である。それは兵士たちの歩調をとった行進の意味であり、またボートのクルーのリズムカルな作業の意味である。それにしても、注意しなければならないが、その場合、リズムは自由に私から出てくるのである。それは私が私の超越によって実現する一つの企てである。リズムは規則的な反復のペルスペクチブにおいて未来と現在と過去を綜合する。このリズムを生み出すのは私である。けれども、それと同時に、このリズムは私をとりまく具体的な共同体の作業もしくは行進の一般的なリズムと融け合っている。このリズムはかかる具体的な共同体によってしか意味を獲得しない。そのことは、たとえば私の採りいれるリズムが《調子外れ》であるときに、私が体験するところのことである。」(「存在と無」下、809~810ページより)
 我々はまさにサルトルが言うように「調子はずれ」にはなりたくないのである。だから敢えて調子はずれで体制(大勢)に抵抗する行為は調子を合わせるという音楽的合一性に対する自由の行使、言ってみれば「合わせる」行為を前提した意思表示であり、それは滅多にするべきことではないのである。始終それをしていたら効果の全くないことなのである。それは寧ろ社会や共同体の一定のルールに随順する成員が義務履行の末に獲得した特権である。ニーチェという哲学者の示した反宗教的権威性は、彼が伝統的な哲学の徒であることの証でもあるのだ。
 サルトルの言うような「誰でもいい誰か」として対私的に、対他的にだけではなしに私をも捉えたある種の無名性、匿名性における自己認識として我々全成員が世界市民として生活していることは、一言語共同体成員としての意識を持ち、そこで実は「合わせる」ということの内に自己の在りようを発見してもいるのだ。
 「合わせる」ことがあるからこそ、「外れる」ことがあり、「離れる」ことがあり、「一人でやる」ことがあり、「一人でいる」ことがあるのだ。「一人でやる」こともまたそれをしていない他の皆に「合わせてやる」ことに他ならないのだ。「一人でいる」こともまた他の皆に「合わせて一人でいる」ことに他ならないのである。
 我々は思惟において、その内容はその場その時の独自のものであり、唯一的な考えとの出会いであるが、それらは概して「あれっ、こういうことって以前にも考えたことがあったよな。」というようなものであるし、かつ何かを考える仕方そのものは、いつものようなやり方であるし、その仕方、やり方はどこかで言語を発する時、思念を纏める仕方、やり方に極めて近く日頃独り言めいて思念する「かたち」へと収斂され得る。それをそのまま温存させつつ、それを文章や発話で具現化したりするか、そのまま内的にただ一人で抱え込んだり、その内別の思念の支配により自然と忘却されたりするかのどちらかへ帰着する。
 我々は明らかに「一人でやる」こととしての思念においても、自己を第一の他者として自己にとって理解しやすいように考えを纏めている。これはやはり一人でいる時に「一人でやる」、「合わせる」こと他ならない。我々は皆一人になった時でさえ、きっとサルトルが言うような意味での「誰でもいい誰か」であるし、それは都会の雑踏にいる時も、人っ子一人いない田舎の山道を歩いている時もそうである。自我というものは寧ろ他者に対する欲望によって醸成されるのだ。
 音楽を演奏したり、会議に出席したりするような意図と覚悟で我々は皆「一人でいる」時には「一人でやる」ことへと臨んでいるのである。そういう行為を敢えて選択しているのである。内的な言語的思念が「一人でやる」、「合わせる」ことである、というのはそのためである。敢えて沈黙することで内的に他者に向かってではなく、自己に対して話しかけるのである。それはある意味では皆何かをやりつつ「合わせる」ことも、「一人でやる」、「合わせる」こともその都度それら一切を統括する「合わせる」ことにおいて行為選択している、ということである。意志は行為されて初めて意志であったとされる。しようかと思い描くことは、意志ではない。
 しかし発話すること、つまり発語行為は意志だが、何かを言語的に思念することは、一個一個のことは内的事実にしか過ぎないのであり、ただそれらが一定の目的の渦中においてなされ得る限り、意志へと誘導される可能性が大いにある、というわけである。ある考えがある行動の合理性に裏打ちされている限りでそれは意志として発現される可能性が大きいと言える。
 だから対人間社会(共同体)内秩序としての「合わせる」という行為選択は、対社会(共同体)的な意味で責任倫理的側面が強い。しかしもし仮に社会全体が歪曲した風潮となってゆくと途端に内的葛藤が必然的に生じ、心情倫理の復権が内的に叫ばれだすのだ。そういうケースにおいてカントの倫理問題は極めて有効性があると思われる。
 しかしそのようなケースとはかなり稀であり、殆どの場合特殊な歴史的状況でしか起り得ず、例えばロシア革命以後のスターリニズム批判、第二次世界大戦中における兵役拒否その他反ナチズム運動とかのケースしか考えられないものである(事実この時期マヤコフスキー、ガルシア・ロルカ、ワルター・ベンヤミン、ディトリッヒ・ボンヘッファーといった人物たちが苦悩する状況へ立ち向かったのであった)。

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