Friday, October 16, 2009

〔顔と表情の意味〕2、法の遵守 カントとサルトルとの出会い、西欧哲学における良心の問題

 さてサルトルのカント的なオマージュの典型的な例を示してみよう。それは「存在と無」下巻に数箇所記述されているサディストの挫折の下りである。これは明らかにカントの「純粋理性批判」や「実践理性批判」中の悪意ある人間の中に潜む善意の下りに対するオマージュである。私はここから哲学にける性善説的であり同時に楽観論的な考え方がキリスト教社会の良心の問題へと直結しており、知性主義的なコノテーションを回避するべくディノテーションの可能性を二人の叙述から読み取れることを示したい。
 サルトルの幾つかの記述からから2箇所、引用記述してからカントも概観してみよう。
 「サディストがその犠牲者からまなざしを向けられるとき、いいかえれば、サディストが他人の自由のうちにおける自分の存在の絶対的な他有化を体験するとき、彼は自分の誤謬を発見する。そのとき、サディストは、ただ単に、彼が自分の《外部‐存在》を取り戻さなかったことを実感するばかりではなく、さらにまた、彼が自分の《外部‐存在》を取り戻そうとこころみるときの活動までもが、超越されており、死せる‐諸可能性を附きしたがえた素質および特性として《サディズム》のうちに凝固させられていることを、実感する。しかも、サディストは、この変化が、彼の屈服させようとしている他人によって、また、他人にとって、生じるものであることを、実感する。そのとき、サディストは、いかに他人を強制して屈服させ、赦しを乞わせても、他人の自由に対して働きかけることはできないであろうことを、発見する。なぜなら、一人のサディスト、幾多の責め道具、屈服するため、自己を裏切るための数多くの口実などがそこに存在するような一つの世界が、存在するにいたるのは、まさに、他人の絶対的な自由においてであり、またそれによってであるからである。(この後彼は「拷問者に対する犠牲者のまなざしの力を描写したものとしては、フォークナーが『八月の光』の終りの方で示した描写ほどすぐれているものはない。」と述べて引用してから)かくして、サディストの世界における他者のまなざしのこの爆発は、サディズムの意味と目標とを崩壊させる。サディズムは、自己の屈服させようとしていたのが、そのような自由であったことを発見すると同時に、自分のあらゆる努力が空しいものであったことをさとる。われわれは、またしても、「まなざしを向けられる‐存在」へ指し向けられる。われわれはこの循環から外へと出ることがない。」(下巻、779~780ページより)
「(前略)私がある弱い男を打って、はずかしめている最中に、不意に、誰かが私を見つけたとしよう。この第三者の出現は、私を《鉤からはずす。》弱い男はもはや《打たれるべき》ものでもなく、《はずかしめられるべき》ものでもない。彼はもはや単なる存在より以外の何ものでもない。もはや何ものでもないのであるから、もはや《一人の弱い男》でもない。あるいは、彼がふたたび弱い男となるのは、第三者の通訳によってであろう。私は第三者から、それが一人の弱い男であったことを、教えられるであろう。(《お前は恥ずかしいと思わないのか。弱い者いじめをするなんて》)弱い男という性質は、私の眼のまえで、第三者によって彼に附与されるであろう。弱い男というその性質は、もはや私の世界の一部をなすのではなく、私がその弱い男といっしょに第三者にとって存在するときの或る宇宙の一部となるであろう。」(下巻、797ページより)(彼はこの後もたびたびこの第三者の視点が私と彼といった二人称の視点、吉本的に言えば対幻想的な視点を崩壊させることを述べている。このことは再び詳細に後述する。)<注、( )括弧内の記述は全部著者のものである。>
 次はカントである。
 カントに内在する倫理的な主張は、哲学史的な使命感としてのそれと全く個人的な資質に帰するところとが微妙な形で混合されており、その意味では時として論理的記述から逸脱するある種のアイロニックな述懐と論理的実証性とが綯い交ぜなったところに独自の見解があると思われる。カントが実証性以上に自己の主観を披瀝したという意味では「実践理性批判」に軍配が上がると言えるだろう。その中でも一際精彩を放っているのが次の箇所である。
「道徳性の定言的命令には、何びとでもまた何時でも従うことができる。ところが幸福〔を得るため〕の指定は、常に経験的条件にもとづいているので、この指定に従うことができる場合は、極めて稀であり、ただ一つの意図に関してすら、なかなか容易なことではないのである。(中略)しかし義務の名において道徳性の実現を命じることは、しごく道理にかなっている、道徳性の指定が傾向性と衝突する場合には、必ずしもすべての人が例外なくこの指定に服従するとは限らないが、しかしどうした道徳的法則に従うことができるかという方策を人から教えられる必要がないからである、それというのも、彼は自分欲することなら、またこれを実際にもなしうるからである。
 賭けごとに負けた人は、恐らく自分自身と自分の不明とを腹立たしく思うかも知れない、しかし彼がいかさましたこと(たとえそれによって勝ったとしても)を自分でよく知っているとしたら、自分の行為を道徳的法則に突き合わせてみさえすれば、彼は自分自身を軽蔑するに違いない。自分に向かって「私は、自分の財布をいっぱいにしたけれども、しかし録でなしのやくざ者だ」と告白せざるを得ないことは、こういう時に自分に喝采を送って「私は怜悧な人間だ、私は自分の金庫を富ませたのだから」と言うのとは、確かに判断の尺度を異にしているにちがいない。」(「実践理性批判」86~87ページより)
 ここでは明らかにカントは自分に対して恥じ入る博徒に対して共感し、かつそういうタイプこそ順当であり、本来人間はそういうものであるべきであるし、そうある筈だ、と言いたいのだ。そして言うに及ばずこの箇所はサルトルの「存在と無」における博徒に関するエピソードへと直結していると思われる。カントが良心の例えとして使用している博徒のいかさまをサルトルのいけない、いけないと思いながらつい賭博を止められないどうしようもない他律とカントが呼ぶものに引き寄せられる博徒の心理に対する言及はこの部分のカント哲学へのオマージュと受け取ることも可能である。そしてサルトルは明らかに先述引用部においてカント的な良心の拭い難き存在を主張しているのだ。
 つまりカントにはある種の性善説的な楽観主義があり、それはどこかキリスト教的ユーモアでもあるが、もっと別種の開き直り的なものでもあるように思われる。しかしカントには同時に非常に厳しい一面もある。それは彼が「道徳形而上学原論」や「実践理性批判」において明示しているところの、幸福欲と善の不一致という現実である。彼にあっては幸福欲的な自己本位は善的価値観とは一致しない、どころかある場面においては対立さえする、そこで彼はそういう場合善の方を優先せよ、と言うのである。ここに彼の言う善意志、つまりカント的な良心の問題がある。
 カントは生来的に温順であること(傾向性)よりも、意志の力による温順さ(義務による対他的な親切心の自覚的な行為選択)を優先する。彼にあっては、あくまで性格的に温順な人間であることよりも、性格的には怜悧で他者に対して対自己に対して厳しくあるような高水準を前提に、「他者もそういう風に自己に厳しい筈だ。」と他者に対して寛容さを持ち合わせていなくても、そういう態度を他者に対して採ることはいけないことだ、と自己に厳しく問い掛け、寛容であろうと意志的に遂行することの方を尊ぶのである。 
 これは心情倫理的な厳格さに裏打ちされた意志論である。このカント思想の性向をどのように理解したらよいのだろうか?
 キリスト教プロテスタンティズムの精神と相同のものがあるとは言えないだろうか?
 カントは神の存在を前提している。しかしそれはキリスト教教義から自己内的にはそう信じていても、哲学者の使命によって記述された意志論的な内容はキリスト教教義ともまた異なった意味合いを持っていよう。しかしにもかかわらず、キリスト教教義的な常識とか文化的な背景といったものがカント哲学において無意識の内に表出しているのだ、と捉えることは極めて自然なことである。
 マックス・ウェーバーは責任倫理(心情倫理に対立するものとしての)の推奨者であったが、彼の「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」において、「カルヴァン派において<「隣人愛」は_被造物ではなく神の栄光への奉仕でなければならないから_何よりもまずlex naturae(自然法)によってあたえられた職業という任務の遂行のうちに現れるのであり、しかもそのさいに、特有な事象的・非人格的な性格を、つまり、われわれを取り巻く社会秩序の合理的構成に役立つべきものという性格を帯びるようになる。」(同書166ページより)としながら、同時に神への栄光という箇所の注釈として、「善き行為でも、それが神への栄光のためではなくて、なんらかの他の目的のためになされる場合には、罪に染んだものなのだ」というハンサード・ノリーの信仰告白を引用している。
 この箇所でもウェーバーの論述は相反する二つの倫理に対する言及があると思われる。本文の方はあくまでプロテスタンティズムにおける責任倫理的な側面、そして注釈引用箇所は心情倫理的な側面の強調である。
 要するに人間は対社会的には責任倫理を遂行せねばならないも、神に対しては心情倫理的に接しよ、という主張がここにはあるのである。それは客観的に見たキリスト教社会の倫理規定であると同時にウェーバーにおいても無意識に表出した西欧社会文化人としての意識であったことであろう(この二値併存性は職務という形で現代にも生きている)。 
 この後者の心情倫理的な観点こそ、カントが意志的決断、つまり義務の履行と呼ぶものこそ、人間に神より付与された発現可能性としての能力であり、かつカント自らが言う「自由」における権利問題なのである。そしてその源流を探ると聖アウグスティヌスにまで遡ることが可能なのではあるまいか?
 ここで再び「存在と無」からの引用を通してサルトルが描出した重要な概念に対して言及してみよう。それは「合わせる」という行為である。(つづく)

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