Monday, October 12, 2009

〔顔と表情の意味〕1、日本人とアメリカ人

 私たちは日頃日本人として生活しているから、客観的に我々自身のことを描出することがなかなか出来ない。それは人間が人間自身のことを問う学問である哲学がなかなか人間の実像に関して答えを見出すことが出来ない(それは永遠に答えの出ない問いであると思われる。しかしそれでも問うことには意味がある。)のと同様である。日本人が最もその全体的な実像を常に想定してきたのがアメリカ人である。梅田望夫の「ウェブ進化論」では、アメリカ人のブロガーたちが記名記述するのに対して、日本人が匿名記述することを取り上げているが、このように自己の意思表示という明示行為の有無こそ日本人とアメリカ人の相違であるという風にも取り敢えず規定することは可能である。事実日本人はアメリカ人ほど個独自の見解を述べることが社会全体に要請されているとは言い難い。そういう意味では日本社会は沈黙の美、不言実行の美徳が浸透している文化的な土壌がある。
 英語で言えば日本人はintrovertな内面世界の真実を信じ、その内的な沈思黙考こそが美徳であり、人間は外面によって示されたさまからは全てを推し量ることが出来ないという暗黙の了解がある。これに対してアメリカ人は日本人に比べると、もっとextrovertな明示的態度に全てが込められているべきであり、本来そうであるべきだ、という観念が浸透している。ギルバート・ライルの哲学が「ふりをすること」と「そういうふりに対応した内面の心を持っている」ことが一致する地点こそ哲学的本意であるとする行動主義的観点もここ(日本人とアメリカ人の習慣の相違)に存している。
 アメリカ人はIt seems to be~というような言辞よりも、率直なI believe~という言辞を好むし、そういう陳述の仕方しか説得力を持たないのが、アメリカ人のソサエティーであると言える。しかし日本人は前者の言辞にどこか安定と、自己主張は希薄ではあるけれど、だからこそ最も冷静沈着な人格をそこに読み取る傾向がある。
 ビジネスに関してはアカウンタビリティーということが近年日本でも大きく取り上げられるようになってきたが、これは完全にアメリカ式の個人による責任の所在の明示行為に起因すると言ってよいだろう。これに対してかつて日本社会では個人による責任の所在を明確化することを回避し、責任転嫁のシステムとして「遺憾に思う。」とか「遺憾の意を表明する。」というような言辞を積極的に使用してきた。これはここで謝罪すると例えば企業のCEОとか経営者だと、企業全体の責任を背負い込むことになり、その企業の損失を被ることに繋がるからである。だから政治家も自分の属している国家に責任があるような場合には国家元首と言えども、謝意を表明することを忌避する傾向があるのである。
 しかし顔の見えないコミュニケーションであるとも言われるウェブ2.0の世界のブログやホームページの書き込みにおける匿名参加意志の表明には、その表明それ自体集団参加における意志表明には、それなりの顔の見え方が立ち現れている。つまり記名して自らの社会的立場とか固有名詞を明示することを忌避するという心的な決心、それは顔を隠したい、社会的個人の記号に対する依拠に逆らうという意志、つまりプライヴァシーの確保を望むという心理の表明である。
 
 昨今いじめが子供社会に横行してきている。実は大人社会にもまた歴然といじめというものは横行しているのだが、大人の場合はいじめに屈することが出来ないという家族に対しての、社会全体に対しての責任感と使命感が介在してくることはあるので、自殺という手段に訴えることが抑制される場合も多いので、顕在化してないだけの話である。尤も昨今の大人の自殺はいじめよりは、生活苦と就業難に原因があるのだが。
 中位者というものは上位者を何らかの形で設定することを望むものである。そして上位者が善良な場合でも、悪質の場合でも偶像に仕立て上げることを通して自己の地位を安定化することを図るのだ。そしてその安定化の作業の際に、中位者になり切れないぐずな人間を下位者として「足手まとい」というレッテルを貼り、爪弾きにしてしまうという行為選択をするのだ。これはその遅延者に対する社会全体の利益に対する損失という面からの認識を採用することを通していじめを正当化しながら行われる自己の責任転嫁的な行動である。実際遅延者を引き上げたりすることそれ自体は不可能であっても、少なくとも激励することくらいは容易な筈なのに、もしその遅延者が社会全体の停滞を齎したら、遅延者に対して温情を抱いたその責任を自己が取らなくてはならないかも知れない可能性に対する恐怖からいじめというものは醸成されるのだ。だから建前重視型の最低の責任倫理遂行という題目がいじめには潜在的には存するのである。
 そしていじめをする民族は殆ど世界中の全ての民族と言っても過言ではない。アメリカ人の人種差別はいじめの典型例であるし、日本人の中にある少数派に対する偏見もまたその一例であるだろう。内的な真意を隠蔽したいということもまたいじめに関係がある(前章において語ったホームページ製作会社若手社員の行為選択において、結婚を考える恋人に対して差し出される表情では、彼は恐らく彼の内的な不安を彼女には示さないように心掛けるという振る舞いも容易に想像し得るであろう)。
 いじめをするアメリカ人は陰湿ないじめよりも更に表立ったいじめ「有色人種入店拒否」というような形でなされてきた。恐らくアメリカではそういうネガティヴな面でもまた自由の提唱がなされているのである。そして高らかに差別を表明するのだ。まるで差別をすることもまた自由であり、当然の権利ででもあるかのような心理がかつてはアメリカ国内ではあったと思う。だからこそマルコムXは最初、黒人のみの人権の主張を行ってきた。しかしエジプトを訪問することで彼は次第に白人の差別に抗する黒人の正当性の主張というテーゼから脱してゆき、白人も黒人も含めた友愛の倫理へと目覚めてゆくこととなるのだ(彼の暗殺者の正体は坂本龍馬の暗殺者同様不明である。ところでオバマ大統領と、国民の結託を私は期待したい)。
 意思表示することを回避する姿勢の多く見られる日本の社会の沈思黙考型美徳賛美主義も、アメリカの意思表示積極遂行型称揚主義も、とどのつまり善行為へと至るか否かは、その時々の判断に委ねられているということであり、流儀そのものが結果の善悪を左右するとは限らないということである。そしてそれらの流儀とは文化様式であり、コードである。だからそれを個別に有用性を論じる以前の、もっと根源的な、何故日本人は日本人らしく、何故アメリカ人はアメリカ人らしく振舞うのか、という点から我々人類の本質を探っていく必要性がここに生じてきたと言える。そこで次章ではそのことに関して掘り下げてみたい。

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