Friday, October 23, 2009

〔顔と表情の意味〕3、述定の心的様相 「私は変わった」

 今度は「私は変わった。」とは、何故言わないのか、ということについて考えてみよう。
 「私の考えは変わった。」とか「私は変わった、と言われる。」とは言えても、「私は変わった。」と独り言を言う場合とか、その「変わった」ことを会話上既知のこととして一々説明する必要のない場合以外に、このような感慨めいた言い方はしないものである。
 「私の考えは変わった。」には何の問題もない。問題は「私は変わった、と言われる(と人は言う)。」である。これは私に対して誰かが、その外見か容貌(顔を中心とした)か、考え方か、行動(パターン)を指して言っているのだろう、と想像されよう。
 私にとって私の行動が変わったことを自分で言う場合、「私は以前~をしなかったのに、最近~をするようになった。」とか、それとは逆に「私は以前~をしていたのに、最近~しなくなった(するのを止めた)。」という風に具体的に言うことが通常であろう。(その後「私は変わった。」と付け加えることはあり得る。)
 体重や身長が変わった場合(「太った」、「痩せた」とか、「背が伸びた」、「縮んだ」とか言う場合。尤も身長の変化は大人にはあまり関係ないが)そのように具体的に言うであろうし、容貌に関してなら「最近顔(つき)が変わったって言われる。」とか「最近綺麗になったって言われる。」とか「最近表情が明るく(暗く)なったって言われる。」とか「最近人相が良くなった(悪くなった)って言われる。」と言うことが通常であろう。にもかかわらず他者から言われたり、他者に対して言う場合、そこまで具体的に言及される内容を説明しなくて、既に語られたことの全体的印象を述定して、「あいつは変わった。」とか「私は変わったって言われる。」(これは他者が私の全体的印象を述定しているのだから、他者の言うことをそのまま直示している。しかしこの言い方は私の何に対して今話題にしているかが相互に了解されている場合が多い。そうでなければ具体的に言及するであろう。例えば「私の性格」とか「私の考え方」とかいう風に。)という風に言うだけで済むのである。
 これは一体何故だろうか?
 他者に対して直接「あいつは変わった。」と言及する場合まず他者の様相的変化の事実を指摘しておいて、然る後に話者がその言及に対する返答として「どういうところが?」と聞き返すことが可能であろうが、またそのように他者の関心を喚起することを目的に全体的印象をまず語っておいてから話者を会話へと惹き込む(参加を促す)意味合いもあるのである。勿論「私は変わったって言われる。」も又、「どういうところが?」という疑問を誘発するように話者に対してこの発語者の発語は仕組まれていると言えよう。しかし兎に角自分の言うことを黙って聞いて欲しいと思う場合は、全体的印象を取り敢えず提出するようなことをする(このように全体的印象から導入して話者に関心を持たせようと画策する)ことなしに、いきなり単刀直入に具体的な言及をすることで説明しつつ発語を聞かせるであろう。発語行為が黙って聞いていて欲しいという要請である場合、その発語行為は、それだけで発語内行為としての側面を持つ。
 では何故「私は変わった。」とは言わないのであろうか?それは、実はあり得る。自分の考えについて相互に確認し合う会話中においてなら。「君変わったね。」と同一の志向性として。しかし、いきなり「私は変わった。」とだけ言うことは挑発目的である場合以外は通常考えられない。というのもそのようにいきなり言ったら必ず他者は「どんなところが?」とか「何が?」と聞かなければならない。そういう関心を促進させるような態度は余程親しい間柄に限られるし、もしそうであってもそういう言辞を度々繰り返すと、自分本位な態度からそういう言辞を浴びせかけられた相手は辟易してくるものである。もしそのように挑発的に全体的印象を自己言及においても行ったとしても、必ず何が変わったかを聞き返してくる他者に対して「考え方がさ。」とか「やることがさ。」とか「表情がさ。」とか「容貌がさ。」という風にもう一度言い直さなければならない。それは二度手間であろう。
 これは「私は変わった。」を一塊で捉えると、「私は変わったって言われる。」は第三者(今の例で言えば、そう言った人)がそういった述定する場合、それはあくまで一塊をAとすると、一般者としての人物(あるいは人物たち)BがAと言った、という意味の構文であるからである。しかし「私は変わった。」はただ単に自動詞の述定である。そこには他動詞の目的語たる対象や動作方向を表わす保護もなく、叙述様相が明確ではないからである。しかし同時に私はその場その時に応じて省略形としてそういう曖昧な言辞を巧みに挿入し得るし、その時はいつでも「変わった私」という語ることで示される意味内容の転換をし得るのである。しかもそのどれをとっても、紛れもなく私であるということを疑いもしない。このように語ることとは私に関してならば、その考え方なのか、容貌や体重などの状態なのか、行動なのかというような言及内容如何を問わず常に「私」の一言で省略し得るということである。しかもその省略とは、省略して語ってもよいかどうかが、相互に意思疎通する際の信頼感の有無に左右されるのである。信頼感のある話者同士ではこの種の省略は会話を円滑に運用する為の方策となるが、そうでなければ挑発的な自己中心主義的言辞となるであろう。敵対者に対して真意の吐露は危険である。

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