Saturday, October 10, 2009

〔顔と表情の意味〕<批判の根源(序の結論)>

 ライルは感覚というものは基本的に観察不可能であると言っている。人間は感覚そのものが快・不快を知ることが出来るし、その事実自体が精神的に苦悩になることは滅多にない。日常的には皆無であると言って良い。それほど人間は柔ではないのだ。確かに愛する者がいなくなり、それでも尚、自分だけが意識と感覚があることは、そういった事態を客観的に考えれば耐え難いし、やり切れまい。しかし、例えば用を足したいと思ったその瞬間、その事実によって用を足すべきトイレが近くにないという認識を生じさせるが、そのようにトイレが見つからないで困窮している状況そのものを憂えて死にたいという風には思わない。基本的に人間は困窮そのものをその事態の打開という観念へと置換することで生の目的を認識する動物だからである。
 要するに感覚することそのものと、その事態を認識することというのは全く別個の事柄なのである。よって仮に脳波計で自分の脳波を書かせながら脳波の視覚的な表れをその場で知りえても尚、我々はそのことは、例えば自分の姿を鏡に映して見て確認出来ただけであり、その時の身体感覚自体は観察不能であり、眼で鏡に映った姿を認識するだけであるような意味で、決して感覚自体を観察し得たわけではない。
 今私の腕に痙攣が起きたとしよう。しかしその時の筋肉のピクッとした動きを視覚的に確認し得たとしても尚、目で確認し得ただけであり、その痙攣が起きた時の私の筋肉そのものの感覚が眼で確認され得たわけではない。ただ今痙攣が起きたのが自分以外の何者でもないという事実を知っているから、それを視覚的に目撃した時、同時に私が私の筋肉を感覚し得たということで、あたかも眼でそれが確認出来たという幻想を持っているだけのことである。それは理解であり、観察ではない。
 このことに対する問いは自己と他者のどうしようもない距離と壁といった問いへと我々を誘う。他人が腹痛を感じていると告白された時、自分もまたその他人と同様先ほど食べた河豚の毒にあたって、激痛を感じてでもいない限り、我々は自分がかつて腹痛を感じた時のことを想像して、他人の激痛の告白に対して憐憫の情を抱くだけのことであり、基本的にその時他人とは反対に自分の腹の具合が快調であるのなら尚更我々は他者の痛みとか感覚といったものは理解出来ないし、共有し得ないという当たり前の事実へと行き当たる。このことは知覚哲学とか痛みの感覚の哲学が実は他者哲学と極めて密接に関係があり、隣接領域同士であることを物語っている。知覚とか感覚を厳密に問うことというのは倫理的な問いを行うことと同じことなのだ。
 前章の別会社に移籍することを考えている若い社員と、老齢の個人投資家の例で考えてみよう。客観的に見て若い年齢の社員は仮に失敗したとしてもまだやり直しが効くという観念が思い浮かぶ。しかし知り合った彼女との一件を考慮に入れれば、そう簡単に結論を下すことは出来ないであろう。また老齢の個人投資家にしても、その投機的なビジネスチャンスも、まだ若いのであれば、一度くらい見送ったとしても尚、別のチャンスは到来するかも知れないが、彼女の年齢を考慮に入れると、一世一代の賭けはこれが最後かも知れない。しかし仮に失敗したとしたら、彼女がこれまで築き上げてきた苦労も一瞬にして水の泡となろう。その意味では彼等は、仮に失敗した時のことを考えて、それでも決行すべきか否かは結局彼等によって決心されるより他はないのである。何に対して一番重きを置くかということが決心のキーとなる。そこには自己の決済以外の何物も入り込む余地はない。それは自己という観念と他者という観念の絶対的な壁を我々に知らせる。失敗したとしても、それが自己による決済であったればこそ、何の悔いもないと捉えるか、周囲の人間や残される家族のことを中心に考えるかという一大決心というものは、所詮他者からどうのこうのと言われる筋合いのものではない。前者の賭けを選ぶか、後者の安定を選ぶかということは他者によっては推し量れない自己の領域の問題である。しかもその決心を促進するようなものに、健康であるとか精神的に安定しているとかの身体的な条件とか感覚の問題も大きく左右するであろう。これもまた他者から見た客観的な状態というものでは推し量れないものである。それら一切を含めて、決心に至るプロセスとか、いくら何度も思念したとしても、その思念内容とは別個の決断をいざとなったら下すような人間の心理というものは、所詮客観的な観察が不可能であるし、またそこには自己と他者のどうしようもない壁が立ちはだかっている。
 他者の健康状態そのものを外的な生理現象として判断することは可能であるが、その本人の身体の感覚、病気によって不快であるのか、それほどでもないのかというような判断というものは所詮自己でしか下せないし、その身体的な感覚というものが決心に影響を与えるかどうかも本人の決済による事項である。ここに知覚生理学的な考察の哲学と他者倫理という哲学の命題とが隣接していることが明確に了解されたことと思う。
 ある絶好のチャンスも、健康上の理由を優先させ、見送ることも本人の意志だし、健康上から言ったら休養が必要である場合でも、一世一代の大仕事であると認識している場合、生命を縮めてでもやり通すという選択をするのも本人の意志である。要するに我々は感覚という本人にしか分からないことを優先するのも、他者に対して向けられた仕事という社会的な行為を優先するのも、本人の選択であるような意味で、知覚的な認知も感覚もそれを通して社会に関わることも、常に相互に侵食し合うような関係にあることを十分自覚しながら哲学という学問を問い続けていかねばならないということである。
 社会という場において他者と関わることが意思疎通であり、仕事であるなら、その場で他者と関わるための道具としての身体を持つ我々はその場にいて、その場の空気を読み、自己と他者を弁別して生きているわけだから、感覚という個的な主張を部分的には他者に伝えねばならない。そこに哲学が社会学、言語学といった学問と隣接し、相互に影響を与え合っていることの意味が出てくる。ここで一つの結論めいたものを提出するとしたら、判断というものの根源には感覚というものがあり、何かを説得されて理解出来たのかそうでないのか(理解することにも感覚というものは関わる。)を他者に伝えねばならない。我々は感覚という個的な事項から発生し得る条件というものを言語に置換すること、つまり「今日は何かむかむか胸が苦しいから会社は一日休みたい。」と会社に伝えるような行為を遂行責任倫理の下に意志決定するわけだから、感覚を感覚のまましておいてよい、つまり他者に伝える必要のない意識(覚醒時を中心とした)の問題(「今日電車の中で美人の女性を見てときめいた。」とかの)と、公的な身体道具的な連関で他者と相互に関わるために伝えねばならないこととの両方を常に携えて生活しているということである。そのことからも感覚と他性とは哲学上では密接に関わりがあることが了解されよう。
 例えばUFОを信じるか信じないかというような設問も、ある未確認の飛行物体を私と私の隣に同席する他者が同時にある時空に視覚的に確認し合えたのなら、それは私が私にしか認知し得ない視覚的認知というものを他者と共有していることのよい証拠となろう。「あれ、あそこに見えるものあなたにも見えるでしょう?」という一言によって私と、私と同席する他者が同一の視覚的な現象を確認し得る、そういう事態は要するに感覚という名の自己固有性とは別個の対象的認知という知覚生理学的な作用の問題である。しかしそういう知覚さえ、実はそのように私と同席している他者に対して私が同意を求めない限り、それが私以外の誰しもが、確認し得るものであるということは立証され得ない。
 私が感じる緑や私が感じる青と、他者が感じるそれが多少ずれているという事態は可能性としてはあるだろう。色というものが地域毎に多少のずれがあり緑色のようなものと通常思われるものでさえ、青と呼ぶ地域というものもあるかも知れない。しかし赤いものを緑と呼ぶ、あるいは青と呼ぶ地域はないであろうと我々は判断し、かつ赤いものを青いとか緑であると言う人間がいたら、その人は色盲に違いないと判断するであろう。
 確かに私が見たものを他人が同じように見たと言い得るのか判然としないということを主張しだしたら、何もかも懐疑の対象と化してしまう。しかし通常私しか目撃していなかった轢き逃げ犯の運転する車がグレーであったという陳述は、私が以前偽証でもして社会的に信用が全くないというような状況ででもない限り、一応信用される。そのことは私がそれ以前に色に関することでないにせよ、何らかの形で社会生活を営んできたことによって、はっきりそのように見たと本人が言うのなら信用してもよいと社会が判断する、一々それが確かどうかを確認する必要はないと判断していているからなのだ。また百歩譲ってもし私が色盲であることを自分で承知している場合でも、赤く感じたなら、私はそれを青と他者に伝えるであろう。そこには他者に対する配慮というものが介在する。
 しかしUFОということとなると、途端に私の目撃を他者と共有し得る場とか機会がない限りなかなか難しくなる。それはUFОという存在が、ただ単に未確認(それが一体何なのかが判然としていないという意味で)であることだけではなく、それは宇宙人が乗った飛行物体であるという社会的なステレオタイプがあるからである。もしそのようなステレオタイプさえなければ、何か不思議な現象が空に確認されたという事態そのものは何ら信用され得ないことではないだろう。要するにUFОを見たと言わなければよいのだ。
 ここで一つの結論が導き出された。それは判断というものが公で認可されるか否かは社会的な通念、つまり私が何かを見たという事実が不可思議ではなく信用され得るものであるという判断を社会自体が下せるということにかかっている、ということである。そうでない場合には私以外の他者がそれを目撃したことが明白であるかどうかがキーとなる、ということである。
 判断というものは結局これ以上一々真偽を確かめるには及ぶまいとする判断以外の何物でもない。ある専門的な領域の評論家が社会でその批評眼に定評があるという事実は、たとえその人物が間違った鑑定をしたとしてのなかなかそれを覆すことは難しいということを物語っている。逆に仮に正しい判定を下したとしても、その下した人間の社会的地位とか社会的な認知が不確定である場合、それはなかなか社会では認可され得ないということをも意味する。だからある専門領域の評論家が、その専門の仕事を依頼されるという事態とは、そのことで発生する成果は信頼するに足るから、それを別の人に評定して貰う必要はないと社会が判断することである。しかしこれが無名の青年であったなら、社会は大概、その出来上がった主張や報告(話であろうと文章であろうと)を別の然るべき地位のある人に判定して貰おうと考えるであろう。実はそのようなものとして私が見た轢き逃げの車の色に関する私の目撃談と、私が見たUFОとの目撃談との信頼性の問題があると思われるのである。一般的な通念とか常識というものはそのようなものとして存在しているのである。要するにある事柄が言及される時、それが信頼され得るか否かという判定は、以前にもそのようなことがあった、という事実認定によるのである。勿論そのように帰納的判断を下せることが難しい事態も世の中には存在することは周知である。にもかかわらず我々には帰納的な判断が容易に下せる前例のあるものを優先するという傾向性が確かにあるのだ。
 しかし困ったことに人間は、その傾向性というものそのものに着目すると途端に、その事実に対して正義感を振りかざしだすのだ。真理とはそういうことではない、と主張するのだ。一般的で、多数の人間が支持するということはただ単にそれだけのことしかない、もっと本質的なことというのがあり、それは信じるに足ることである、という何かわけの分からない理想を持っている。
 動物行動学者のデズモンド・モリスは人間とは直角に寝ることが出来るようになったことを他の霊長類と人間とを分岐させる一つの境目であると捉えているが、宗教哲学者ブーバーの言う「我」と「汝」とは実際上、この性行為としては座位の姿勢となる向かい合いの姿勢の獲得から自己と他者の精神的な峻別、そしてそこから派生する自己と他者の壁、そのことへの克服という命題を取り込んだことから派生したのかも知れない。そして他人の全てが自分の娘の犯罪を信じていても尚、彼女自身が無罪を主張するのなら、一切の世間体を捨てて娘の無罪を信じるのが父親とか母親というものではないのか?そのような観念も向かい合うという行為から引き出されている気がする。そこでは判断の根源に悟性レヴェルの思惟を遥かに超えた家族とか肉親の愛という超越的な理性、合理的判断を超えた「信じる」という行為の切実さがある。
 前章の例から再び考えてみよう。別の会社に合格した若いホームページ制作会社員にとって結婚を意識する彼女さえいなければ、多少の冒険覚悟で新しい会社へ移籍することは間違いないだろう。ならば彼女に相談してみるというのは悪い考えではないだろう。その時頑強に彼女が反対すれば、それでも尚自分が彼女と人生を共にすることを真剣に考えているかどうかという自分の真意がよく確認出来るというものだ。仮に彼女が「あなたの人生でしょう?私のことで夢を諦めるの?」と背中を押してくれるのなら、彼女はひょっとすると人生最大の出会いだったかも知れない、そう思えるかも知れない。
 老齢な個人投資家の彼女は、絶好のビジネスチャンスのことを息子二人相談してみたら、ひょっとしたら背中を押してくれるかも知れない。そうなったら最早借財を背負うことにさえならなければ今持っている資産が無一文になったからとて、自分の夢を諦めることで、後悔するよりはましかも知れないではないか?
 つまり人生ではそのような分岐点において何らかの決断を下す時、他者が相談すべき対象であると思える事態そのものはその他者に対して真摯に向き合い、信頼することが出来るという事態に他ならない。それは他性ということが自己の人生を生きることにおいてかけがえのない事態であることを物語っている。
 
 しかし現代のマスコミニケーション、及びマスメディアは全く異なった社会の様相を形成しているとも言える。カントは「自らにおいて他の人間全てが行為の格律とすると思えるようなものに沿った行動をせよ。」と説く。カントはある意味では極めて日常的な他性に拘った哲学者であった。しかしカントが言うような行為の格律とは現代では最早自らの信条とか信念に忠実に生きよというような訓戒としてキリスト教徒とか一部の宗教信者や、モラリストにとってだけは現代でも尚有効な作用を持っているのであろうが、一般的な社会人にとってはもっと画一化された情報的な摂取によって左右されていると言っても過言ではない。言語ゲームという言葉を哲学で最初に語ったのはウィトゲンシュタインという現代哲学の基礎を築いたとされる人であるが、彼の言っている言語ゲームというものは現代の社会の様相にこそ相応しい語彙であると思われる。
 何故なら現代社会では、例えばニュースで報道される犯罪とか事件とかも大衆の関心を惹きつけるものを優先して選択され、編集されている。もし同じくらいの罪状の犯人がいたとしたら、明らかに大衆が関心を寄せる犯人を特集し、その犯人の精神分析を大きくクローズアップさせる。それは被害者の家族でも同様である。それらは報道機関や情報番組だけではない。法曹界さえ、ある意味では摘発対象を情報的価値のある、数年前の例で行けばIT長者とか物言う株主とか、要するに勝ち組の象徴的存在を槍玉に挙げることで、関心を惹きつけようとする。例えば金の工面に苦労する人がつい手を出してにっちもさっちも行かなくなる消費者金融機関を経営する人間はつとに摘発されない。仮に摘発されていたとしても、それほどのニュース的価値がないとなれば報道ではほんのちょっと触り程度のもので済まそうとする。そのような人々を摘発し、その犯罪を報道してもそれほどの関心を一般には惹かないからだ。それよりは知名度のある実業家の摘発の方がニュース的な価値があるというわけである。そして視聴者の側でもそのことを当然のこととしている。例えば何人かの幼児殺害者はまるでスターのような扱いで心理分析のような特番が組まれ、精神分析や検察の専門家がコメンテーターとして出演し、話題を作る。このような報道の姿勢と、それは致し方ないことなのだ、と割り切る視聴者たちとの間で繰り広げられることこそ、現代社会固有の言語ゲームである。
 そこでは他者という存在は社会的な常識(それは多分にマスメディアがでっちあげたものである場合が多いのだが)を共有し合える場合のみ、意思疎通する価値のある道具となるようなドライな、しかも実質的な触れ合いよりも数量化された、例えばある化粧品を売るメーカーの開発部や商品企画部、営業部が知恵を絞って一般顧客層を獲得するための社会動向の指数を形成する対象としての他者にしか過ぎない。要するに他者という存在は現代では一般的に個々の顔の見えない存在なのである。逆に顔が見えることというのは余計な事態なのだ。
 現代の哲学者で顔というものを存在論的にも認識論的にも拘り続けた人に、エマニュエル・レヴィナスという人がいる。この人はフッサールに師事し、彼やハイデッガーをフランスで最初に紹介した人としても知られる。彼にとって他者の存在と顔による意思疎通という事態は極めて現代で固有の役割を持っていることが示される。レヴィナスは顔が自己にとって他者に向けられた人質であると考える。顔はダーウィンも考察したが、表情を他者へと運ぶ一種の道具であるし、私を私以外の誰かと弁別する証拠でもあるし、ある種の記号である。レヴィナスによると語らないという行為は、それ自体で何ものかを雄弁に語るということとなる。ここら辺に東洋的な倫理感との共通性も感じさせ我々には極めて興味深いのであるが、他者哲学者としての彼がユダヤ出自であることが関係して、多くのユダヤ・キリスト教倫理の用語が登場する。そしてそんな彼が言わば神とか宗教に関しては否定的であったフッサールやハイデッガーたちによってその哲学的基礎を身につけたという事実が実に興味深い。ハイデッガー自身神学的立場にいた人間であり、そのことから来る精神的な諸々の問題から哲学に入っていたことを考え合わせると、意外と哲学と宗教の壁というものは薄いのかも知れない。
 デヴィッドソンが指摘していることなのだが(「行為と出来事」)、何か未来への意志を他者に伝える時、未来に関する予定なので、不側の事態を考慮に入れて、「来週私がかかわった業務不正が摘発されず私が逮捕されないのなら私は必ずその会議には出席するであろう。」というようにそれ以外にももっと多くの条件節をつけるとしよう。それは厳密に未来に関する責任倫理を遂行しているように見えるが、実際上はその未来に関する不安定な意志と責任回避を伝えていることに等しい。そのような意味で我々は社会生活上では様々な社会的責務に晒されているが、その責任遂行に関して、出来得る限り責任転嫁したり、連帯責任へと縺れ込ませようと画策したりして、要するに責任を逃れようとする。その一つの端的な例が匿名で記述するブログの内容である。そこにはレヴィナスが執拗に拘った顔という事態は全く見えない。勿論ネット社会そのものには限りない可能性が秘められているが、仮想性としての顔の見えなさは、マスメディアの戦略、数量化された世論の如き幻想が横行する社会を前提していると私にも感じられる。そのような通信の時代を生き抜くためには我々はもう一度個とは何なのか、他者とは何なのか、自己と他者の係わり合い、意思疎通、言語行為、感覚、認識といった多くの日常的な事項に対してもう一度捉え直すべき時期に来ていると私は考える。その際に哲学という学問が現代社会に提示する問題が、ある種の指針になり得ると真剣に私は考えるし、かつその問題提起的な可能性は、哲学に隣接する多くの学問にとっても有益であると思われる。
 
 しかしそのように述べておいて矛盾すると思われるかも知れないが、顔が見えるということとはでは一体何なのかということについて考えてみると、意外とそう容易く答えられるものではないことが了解される。
 確かに直に顔を意思疎通する他者に対して晒し、自己の意見を表明することを通して自己の真意を表明することは可能であろう。しかし真意の性質そのものがその他者にとって受け入れ難いものであるのなら、その他者は例えば私が表明した真意に対して敵意を持つかも知れない。自己と他者の係わり合いとは端的に顔を付き合わせるとか、直に意見を申し述べることであるという風に単純に理解すると、その率直さが仇となるということは日本社会ではしばしば見受けられてきたことである。アメリカ人でもそこら辺では同様の心理があるのではないか、と私は思う。他者、しかも社会的上位者に対して何もかも本意を告げることが許されるというほど社会の様相そのものは単純ではない。ある場合には本意を抑えることが積極的に求められるという事態も十分考えられる。債務者と債権者は立場上同等ではない。そういう意味で社会が常に対等な人間関係ではない以上、我々は本意を告白することを憚るという意志決定性に常に隣接して生活してきているのである。
 例えば学問間にもそれは言える。哲学それ自体に隣接した学問が、哲学に対して単刀直入に意見交換し得るようでいて、案外そうはいかない、例えば自然科学に対して哲学が意見することは出来ても、それはあくまで総論的な意見に過ぎないのであって、ある自然科学の学説に異論を唱えるとなると、それを証明することの能力と実際的なデータを例証して明示する実証性が求められるから、そうおいそれとはいかないということがあり得る。そこで単刀直入な意見交換という事態は、極めて理想主義的な机上の空論と化す、ということとなるのである。
 そしてまたそのように自己の意見を差し控えるという行為選択が一種の責任倫理として作用するということもあるのだ。するとレヴィナスの唱えた顔の論理もまた、ただ安易な意見交換という名の意志表示ではなく、もっと本質規定的な本意の表出、例えば面と向かって言い辛いことを敢えて言わなければならないことに対する逡巡の表出に続いて、その逡巡に対する払拭が、その本意表明をされる側に対して大きな宣告となるという事態もしばしば我々が経験してきたことである。だから画商が画家のアトリエに訪れた時に画家の絵を見た時の表情による反応とか、コレクターがある画家の個展において、その作品に対して抱く率直な感想というものが、その鑑賞者の絵を目にした時の表情と最初の一言に要約されている、つまり殊更詳細に述べなくても、全てを語るという事態は既に我々が熟知するところの状態である。
 ブログでの対話が匿名でも可能だからこそ、成立する事態という有用性も考えられるだろうが、そこには幾分「やらせ」的な対話を参加者全員が前提しているという部分はある。しかしストレス解消の意味合いからも、ブログの書き込みをする行為それ自体が全て悪であるとも決め付けられない。「やらせ」性が自己と他者のどうしようもない壁を取り払うという利便性もまたブログ匿名参加にはあるのだから。そこには新たな参加形態という有用性に対する可能性認識において、哲学の問いそれ自体をもう一度捉え直す契機をも我々に付与しているという風にも捉えられるのではないだろうか? 世論的幻想性それ自体を前提することによって却って本意の表出を可能にするということもまたブログの有用性の一つかも知れないが、そのことで立ちはだかる我々日本人の意思表示とアメリカ人の意思表示の相違を通してコミュニケーションの本質に対する問いを次章ではしてみようと思う。

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