Tuesday, October 20, 2009

〔顔と表情の意味〕2、法の遵守 夜盗の変節と結論

 そこで我々は「合わせる」行為は、法の順守としての日常的基本姿勢の顕現であり、即ち非常時に難局を乗り越えるためのエネルギー温存の為の知恵として、日常各瞬間に無意識の内に採用している、といわけなのである。しかここで問われるのは責任倫理的な日常スタンスとはどういうものであるべきか、という問題である。
 ここである思考実験をしてみようと思う。
 今住んでいるアパートの家賃の支払いに困窮して夜盗として悪事を働くために夜外出した人間が、たまたま犯行しようと思い立った家屋の前まで来た時に、犯行予定であったまさにその邸宅から出てきた先着の侵入者をその場で咄嗟に捕まえて、後日その犯行予定の邸宅の住人に感謝され、おまけに警察からも表彰され、その時住人からも褒章を得たとしよう。彼はどうにかその褒章金で家賃を払うことが出来たし、ヒーローとして褒め称えられたのだ。
 さてこの人間はたまたま遭遇した犯罪者に対してその場で咄嗟の判断をし、捕まえただけである。実際はその宅を夜盗として襲おうと思って出掛けたに過ぎない、もしこの先着者に出会わなければ自分がその家を夜盗していたに違いない、以上の理由から正直に自分の犯罪計画について告白すべきであろうか?勿論本当は自分が襲う筈であった家の住人から感謝され、警察からも賞状を貰ったのだ。内心彼の胸中においては穏やかならぬ良心の声も手伝って「こんなに褒められて申し訳ない」という思いに囚われていることであろう。しかし果たしてこの人間は全てを正直に告白すべきなのであろうか?
 もし住人も警察も何でそんな時間にその宅の界隈に歩いていたのかということに殊更追及することがないのなら、黙っているべきではないだろうか?敢えて周囲の人間の安堵に水をさす行為には果たして意味があるであろうか?感謝され、喜ばれているこの状況において犯罪はとにかく未然に防止出来てよかったと周囲の皆がそう思っているのならこの一件が周囲から忘却されるまでは沈黙を通すべきではなかろうか?しかし彼がもしキリスト教徒であれば、いつか神に対する背信行為であるところのこの悪行への目論見を告白すべき時期は来るであろう。そうでなくても自己内の良心がいつかは誰かに告白することを強いるであろう。その時彼は共同体への責任倫理と神への心情倫理の双方を解決し得たと言えるのではないだろうか?
 先述のマックス・ウェーバーの論理には心情倫理と責任倫理の狭間で引き裂かれながらも統合しようと躍起になっているプロテスタントの姿が読み取れた。
 このような形で我々は、キリスト教者の神に対する真摯な心情倫理と社会に対する責任倫理の遂行ということが、もし彼等西欧米文化圏の無神論者をも含めた暗黙の法に対する順守であるなら、彼等の残した多くの偉大なテクストに無意識の法の順守が示されているその痕跡を辿りながら、ディノテーションとコノテーションのどちらでもないもう一つの非意図的顕示という言語行為の法の順守を、そこに見出せるかも知れない、と思われるのである。それは恐らくシニフィエ、シニフィアンの双方からの探求が要求されてゆくことであろう。何故なら非意図的顕示(カントやウェーバーによって示されている)こそ、言語と社会共同体の法の一致点だと思われるからである。(私は無意識という語をなるべく使いたくない。)
 付録  全体対する注釈 
 人間の集合意識、あるいは集団同化意識が対社会的責任倫理として位置付けられ、逆に孤独確保意識が対神としての心情倫理(自己に対しては嘘をつかないという意識)と関連があると思われる。世間に対して過去の自己真意を表明しないでおくことはある意味では責務偽装であると言えよう。

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